エンジェルアイランドに吹く風は、今日も高く、冷たく、どこまでも澄んでいた。
マスターエメラルドが放つ淡い光は、雲の上に浮かぶこの島を照らし続ける。その中心で、ナックルズはひとり、拳を組みながら佇んでいた。
夜が怖い。
それは、守護者として最も口にしてはならない弱音のはずだった。それでも――レジーナの無人機に攫われて以来、ナックルズの夜は地獄だった。
ベッドに横になり、目を閉じる。その瞬間、世界が崩れ落ちていく。
ソニックが襲われる。テイルスが泣きながら倒れる。エミーが助けを求めて腕を伸ばす。
誰も救えない。守れない。手が届かない。
――やめろ。頼む。殺さないでくれ。俺のせいだ。なんでもする。なんでもするから。
泣き叫んで目を覚ます。
胸が焼けるように苦しく、呼吸が乱れ、汗で寝床が湿っている。しかし、そのまま泣き続けるわけにはいかない。
守護者は泣かない。弱音を吐かない。誰かに頼らない。常に強くあるべき。
それが、自分がこの島でたった一人、背負うべき役割だから。
たとえそれが、今の自分を押し潰してしまったとしても。
あくる日の昼。ソニックが島へ遊びにやってきた。
「なあナックルズ、この前買ったチリドッグな⋯⋯ただのトマトソースのパンだったんだよ!詐欺だろ、あれ!」
「よく確認してから買えよ」
「それでさ、コーラ買ったら中身がコーヒーでさ!俺、吹き出して鼻まで入ったんだぞ!」
「そうかよ。そのまま鼻から飲んじまえ」
適当に突っ込みをいれながら、ナックルズは拳を握りしめた。悪夢のことは、何があっても誰にも言えない。
ソニックは無駄話に花を咲かせて、満足したのか、すっきりした顔で立ち上がって言った。
「また来るな。そうだ、エミーも久しぶりに島のフルーツを食べに来たいってさ」
「駄目だ!来るな!」
ナックルズは、エミーの名を聞いた瞬間に、顔色を変えて鋭く叫んだ。
ソニックがぎょっとして振り返る。
「いや⋯⋯ほら、ここは風が強いし⋯⋯ええと、肌が荒れるだろ?エミーは大事な女の子なんだからよ」
そう言って誤魔化した。ソニックは眉をひそめたが、気づかぬふりをして笑い、そのまま去っていった。
(⋯⋯誰も来なくていい。もう、こんな島に)
一瞬、別の顔が浮かんだ。
表情の読めない淡々とした顔で、しかしいつでも冷静に、ちょうどいい距離で、自分の手助けをしてくれる、黒いハリネズミ。
レジーナから拷問を受け、怪我を負って倒れた時、シャドウは一晩中側にいてくれた。
あれから、シャドウは一度もこの島に来ていない。
(⋯⋯来なくていい。来るな。来たって⋯⋯)
そう思うのに、胸の奥に沈んでいる感情が震える。
――あいつになら、少しくらい弱いところを見せてみてもいいのかもしれない。
喉の奥が苦くなる。そんな甘えた考えを持つ自分に、ナックルズは心の中で拳を叩きつけた。
(馬鹿か俺は。誰かに頼るな。守護者だろ。強くいろ。誰も巻き込むな。)
強く言い聞かせたのに、胸の奥はじわりと痛んだ。夜が来るのがまた怖い。昼寝に逃げても、悪夢は追ってくる。そんなことを誰にも言えないまま、また夜が訪れる。
孤独な守護者の夜が。
シャドウは、あらゆる任務のために、世界中を駆け回っていた。
世界政府からの依頼を、ただ淡々と、機械的にこなす日々。
足を止めたら、つい考えてしまう。生真面目で面倒見のいい、マスターエメラルドの守護者の事を。
胸を掴まれるような記憶ばかりが思い出される。
怪我をして、島の小屋の中で必死に介抱してくれた姿。痺れる手を優しく撫でてくれた時のぎこちない手つきと、とろけるような心地よさ。
攫われたナックルズを救出した時の、腕の中で弱りきって震える姿。小屋の中で布団に潜り、握られた手から伝わる温もり。
この気持ちは、なんなのか。
友情か。心地よさに対する執着か。あるいは、ただの同情か。
それとも、強い重力のように心を捉えて離さない、もっと別の何か。
ある街角で、恋人同士が腕を組んで歩く姿を見た。男は自信に満ち、女は幸せに満たされていた。
シャドウはつい息を呑んで二人の横顔を食い入るように見入っていた。
(つまり、あれが⋯⋯“関係”か)
自分はナックルズに、何を与えられるのか。そもそも、ナックルズはその何かを求めているのか。求めていなくとも、受け止めてくれるかどうか。
(もし⋯⋯僕のこの感情を知ったら⋯⋯)
あの紫色の澄んだ瞳が、気まずそうに冷たく逸れる光景が脳裏をよぎった。
(やっぱり、迷惑だろうか)
胸の中につっかえた感情が重く沈み、足元が揺らぐ。シャドウは目を閉じて、何度も何度も自分に命じた。
(考えるな。行動しろ。働け。彼のことなど⋯⋯)
それでも、島でナックルズに撫でてもらった手から伝わる心地よさが忘れられず、心の痛みだけが日に日に増していった。
いつものように任務を終えた帰り道。突然ソニックが風のように目の前に現れた。
「よお、シャドウ!この前買ったチリドッグのウインナーがさぁ」
「やめろ、聞く気はない」
シャドウはしかめっ面でソニックの口を塞いだ。ソニックは強引に手を剥がし、険しい顔で言った。
「ナックルズがおかしい」
シャドウの心臓が跳ねる。
(⋯⋯僕が必死に考えまいとしていたその名を、よくも軽々しく⋯⋯)
憎らしい気持ちをたっぷりこめて、ソニックをにらみつける。
「どういう意味だ」
「わからないけど⋯⋯隠してる。イラついてるのか、怒ってるのか、何かが不安なのか⋯⋯。シャドウ。お前、何か心当たりあるか?こないだナックルズが弱ってた時、お前が一晩中、側で看病してたんだろ」
「僕に聞くな。彼に直接訊け。何を恐れている。必要なら、引っ込み思案な今の君に代わって、僕が彼から聞きだしてやろうか」
シャドウは自分が触れられたくなかった心の中の領域──ナックルズに関する事に、無神経にずけずけと入り込まれたような気がして、つい考えなしにソニックを挑発してしまった。
ソニックが眉を大きく吊り上げ、シャドウに食ってかかった。
「はっ。そうだな、自分で聞くよ。お前こそ忙しくって、今はもう、どうでもいいんだろ?ナックルズのことなんか」
シャドウは食って殺すかのような威圧感でソニックを睨みつけた。
「どうでもいい⋯⋯?」
聞き捨てならない言葉に、心の奥が燃やされる。
「僕は仕事を完璧に管理している。優先度づけを誤って、仕事を言い訳に仲間を見捨てたりはしない。君はそういう雑な失敗もするのかもしれないけどな!」
「なんだと!?」
互いに互いへの怒りが爆ぜた。このままでは殴り合いにしかならないと分かっていながら、お互いに止まれない。
シャドウはかっとなったまま、カオスコントロールで島へ向かおうとした。ソニックが飛びついてきて、お互い胸倉をつかみ合いながら島の上空へテレポートして、ボトリと仲良く地面に落ちた。
「いってぇ、ちゃんと着地させろよ、この下手くそ」
「君が無理やり飛びついてきたんだろう」
罵り合いながら起き上がり、すぐに島の祭壇へ向かって、競い合いように走りだした。
祭壇のすぐ近くまで来て、異変に気付く。
ナックルズがいない。
「島内の見回りにでも行っているのか?」
「いいや、この時間なら、大体いつも祭壇にいるはずなのに⋯⋯」
二人は祭壇の頂上まで駆け上がって、辺りを見回した。
奥側の柱に隠れて、赤い何かが少しだけ見えた。ソニックが駆け出し、シャドウが少し遅れて続いた。
そして、祭壇の奥側の石柱の陰で、崩れ落ちるように眠っているナックルズを見つけた。
泣きながら、苦しげにうわ言をつぶやいている。
「やめてくれ⋯⋯みんなを殺さないでくれ⋯⋯俺は⋯⋯どうなっても⋯⋯いいから⋯⋯」
ソニックの顔色が変わる。シャドウは自分の心が裂ける音がした。まだ続いていたのだ。レジーナの地獄が。あの日の恐怖が。
シャドウは思わず手を伸ばした。しかし――ソニックがその手を掴んで、止めた。
「待て、シャドウ。今は⋯⋯むやみに触れるな」
ソニックはそのままシャドウの腕を掴み、シャドウを島の反対側まで連れていった。シャドウは体をよじってソニックの腕を離れ、睨み返し、その鋭さのまま言った。
「抱きしめてやれたら⋯⋯どれだけ救われる」
「違うんだよ、シャドウ!」
ソニックは低い声で続けた。
「ナックルズは強くありたいんだ。弱い姿を⋯⋯俺たちに見せたくないんだ。あいつは誇りが高い。弱ってんだな、可哀想にって、優しく慰められることなんてきっと望んじゃいない」
シャドウは胸が裂けるような思いでその場に立ち尽くした。
(僕の気持ちでは、彼は救われない⋯⋯?)
シャドウは拳を握って、ソニックに食ってかかった。
「君は臆病だ!」
「ちがう!お前の方こそ無神経だ!」
お互いに罵声を投げつけ、二人はとうとう殴り合いを始めた。
くだらない力任せの喧嘩。拳と拳、額と額、砂を蹴り、互いを突き飛ばし合う。
そして――ソニックが突然動きを止めた。
「⋯⋯聞こえる!」
シャドウも耳を澄ます。銃撃と、金属音。何かが爆ぜる音。
「祭壇だ!!」
二人は同時に、跳ねるように祭壇に駆け戻っていった。
祭壇前には、破壊された無人機が散乱していた。
ナックルズはその中央で息を整え、拳を打ち鳴らしていた。
「来てたのかよ、ソニック」
そして、シャドウを見つけ、一瞬だけ目を瞠り、かすかに笑う。
「お前も来てたのかよ」
ナックルズが無人機の残骸を片付けながら言った。
「なぁ、この無人機って⋯⋯レジーナのものだよな」
「ナックルズ救出後、エージェント側で情報共有し、あの要塞都市へは軍事介入が実行され、レジーナは世界政府に逮捕された。しかし、システムの混乱により、古い命令を維持した機体が、あちこちに散らばっているようだ」
シャドウが手伝いながら報告し、暗い表情で付け加えた。
「ナックルズ、君にもこの件は報告しておくべきだった。今日のこの襲撃で君を危険に晒してしまったのは、完全に僕の落ち度だ⋯⋯」
ナックルズが重ねるように言った。
「このくらいの襲撃、なんでもねぇんだよ。あくびが出るくらいだったぜ」
ソニックが一歩前に出ながら、明るい声でナックルズに言った。
「いやぁ、無事でよかったぜ、親友。喉がカラカラでさぁ。実はついさっきまで、命がけの決闘してたんだよ、俺たちは」
「またくだらねぇ喧嘩してたな。フルーツジュースでも飲んでけよ」
ナックルズは呆れ顔で言い、祭壇をひとっ飛びに降り、小屋へ向かって歩いていった。ソニックはシャドウの背中を軽く小突き、ナックルズの後を追っていく。
シャドウは眉を寄せながらも、二人の後を追った。胸の奥につかえていた重い気持ちが、少しだけ軽くなっていた。
小屋に着くと、ナックルズはもぎたてのフルーツでジュースを絞り、二人をもてなした。
「こないだテイルスの端末で、下品な笑い方をする犬のアニメ全話見たら、テイルスの端末のログが下品な犬の歯茎で埋まっちまったんだ。テイルスにめちゃくちゃ怒られてさぁ⋯⋯」
ソニックはジュースを飲みながら、いつものように、延々とくだらない話で場を持たせる。シャドウは黙って座り、ジュースに口をつけた。
ナックルズは、小麦粉にフルーツを練り込んで焼いたパンを、そっと小皿に盛って、シャドウの前に置いた。
シャドウは黙ってパンを手に取り、静かに食べた。
ナックルズがフルーツをナイフで器用にカットし、シャドウの皿に追加でそっと置く。シャドウはそれも黙ってもぐもぐ食べる。
ソニックは二人の不思議な距離に気づかないふりをしながら、ひたすら喋り、賑やかな空気を保ち続けた。
夜になる頃、ナックルズは追加のパンを焼き、スープを作り、夕食として振る舞った。
「街で喧嘩ふっかけてる酔っ払いがいたんだ。やめとけよって、飛び出していって気付いたんだ。そいつ、手に何もってたと思う?十段重ねのアイス。全部イチゴ味。すごくないか?結局落としそうになって、善意で俺が崩れるアイスを口で受け止めてやったんだ。当然、感謝はされなかったぜ。アイスはめちゃくちゃ美味しかった」
ソニックはひたすらべらべらとくだらない話を続ける。
ナックルズは適当に相槌をうったり、突っ込みをいれたりしていたが、不意にソニックに向かって言った。
「ソニック。お前さぁ⋯⋯」
「ん?」
「いや⋯⋯なんでもない」
出かけた言葉を飲み込み、代わりにパンをソニックの皿に放りこんだ。
ナックルズは騒がしいソニックに感謝した。ソニックがおしゃべりをして、シャドウが黙って側に佇む。
ナックルズは、それがとても心地よかった。
(夜がこんなに楽しいのは、いつぶりだっけかな)
夜もすっかり更けこんで、月も見えなくなった頃、ソニックがようやく無駄話を止めた。
「めちゃくちゃ喋って、すっきりしたなぁ。さて、そろそろ寝るか」
ナックルズの背筋がびくりと震える。夜は怖い。
でも――ソニックにもシャドウにも、それを悟られたくはなかった。
「お、俺はマスターエメラルドを見てくる」
震えを押し隠しながら言うと、ソニックは笑って言った。
「すぐ戻れよ。三人で雑魚寝しようぜ」
小屋を出ると、すぐ後ろにシャドウの足音が続いた。
「⋯⋯シャドウ?」
ナックルズの心がざわつく。
二人きりになるのは、久しぶりだった。
マスターエメラルドの光にあてられながら、祭壇の周辺を黙って一周する。
風が静かに吹いた。背後で、シャドウが言う。
「調子はどうだ」
「何がだよ」
「君に会うのはあれ以来だ。⋯⋯本当は、もう一度ここへ来たかった」
ナックルズは面食らった。
あの時⋯⋯ナックルズがレジーナの元から救出されて、小屋のベッドで一晩シャドウに見守られて眠った時。シャドウはずっと側にいてくれた。
久しぶりに会ったシャドウは、あの時と変わらず、優しい声でナックルズに語りかけてくる。
「べ⋯⋯⋯別に、来たってなんにもないだろ、この島は」
「君がいる」
静かに即答されて、ナックルズは返す言葉を失った。胸の内側がくすぐったい。
シャドウはまっすぐとこちらを見ている。目線のやり場に困って、思わずナックルズはシャドウに背を向け、マスターエメラルドの方を見た。
「調子は、ぼちぼちだよ。⋯⋯ただ⋯⋯ちょっと、疲れてんだ」
シャドウがナックルズの隣りに立って言った。
「今日は休もう。僕もソニックも疲れてる。三人揃って⋯⋯くだらない夢でも見るさ」
「くだらない夢⋯⋯」
「下品な犬の歯茎や、イチゴのアイスを持った酔っ払いの夢」
「勘弁してくれよ」
つい笑ってシャドウの身体を肘で軽く突いた。シャドウがふっと笑い返してくる。
二人は何を語るでもなく、まばらにちらつく星をみながら小屋へと戻っていった。
小屋に戻ると、ソニックは既に床にシーツを敷いて寝転がり、腕を頭の後ろで組んで欠伸をしている。
シャドウもベッドのすぐ近くにシーツを敷くと、横になってナックルズに言った。
「君はベッドで寝るといい」
「お前ら、寝心地悪いだろ」
ソニックがごろりと寝返りをうって言った。
「祭壇の石段の上と同程度には寝心地いいぜ。いい夢が見れそうだ」
ナックルズはベッドに上がりながら返した。
「下品な笑い方の犬の夢?」
「同じ笑い方をお前の夢の中でやってやるぜ。夢の中にちゃんと俺を招待しろよ」
「一応、待っててやる。十段重ねのイチゴのアイスを食いながらな」
「僕も呼んでくれ」
シャドウが割って入ってきたので、ソニックが突っついた。
「シャドウ、お前も同じ笑い方をしろよ」
「僕はナックルズとイチゴのアイスを食べる。君は夢の中でもう一度テイルスに叱られていろ」
柔らかなランプの灯りが壁際でかすかに揺れる。
そのうち、部屋の中に誰かの寝息が響き、ナックルズはそれを静かに聞いていた。
ナックルズは、なんとなく、自分の調子が悪いのを、二人には気付かれているのだろうと思った。
ソニックもシャドウも、余計な事は言ってこない。ただ、側にいる。狭い小屋の中で、こうやって一緒に寝る。それだけの関係が、今のナックルズにはちょうどよかった。
「ナックルズ」
まるで寝言のような、ほんの小さな声が耳に届いた。
「⋯⋯⋯また来る。この島に。君の様子を見に」
まどろみながら、ナックルズはその声を聞いていた。
来たいなら来ればいい。そう思って、ナックルズは思い出した。
(そうだった。何があっても、誰が来ても、俺はただ受け止める)
「いつでも、来いよ⋯⋯⋯」
ナックルズは舌足らずな声で返し、そのまま眠りに落ちていった。
「おやすみ、ナックルズ」
夜の島に、穏やかな寝息が広がった。
ナックルズはマスターエメラルドの夢を見た。
温かなエメラルドの光がナックルズを優しく包み込む。
ふと周囲を見渡すと、そこはいつもの祭壇の前で、誰かが遊びに来てくれた。いつも通り、エメラルドの前で、堂々と腕組みをして出迎える。
(もう大丈夫だ。これがいつもの俺だ⋯⋯)
ナックルズは今度こそ、深い眠りに落ちていった。