後日譚 Ⅱ カフェオレとチョコレート

ハビシュは苦しんでいた。

反究極生命体・ユニによって、かつて所属していた研究組織によって、尊厳と境界を破壊し尽くされ、自身に残っているのは孤独と無力感と、強いトラウマ反応だった。

それでも世界政府によって保護されたハビシュは、精神鑑定と能力テストにより、戦力的価値を高く見出され、カウンセリングを受けながら、毎日地下施設でエージェントとしての訓練を積み、実務をこなしていた。


世界政府の地下施設。

窓のない薄暗い個室で、ハビシュはベッドの上に座り込んでいた。

呼び出し音が鳴る。

部屋から出て、通路を進み、自動ドアのスイッチを押して中に入る。

白を基調としたシンプルな空間に、情報端末を操作するキュイが座っていた。

ハビシュは目をとろけさせて、キュイの背後に立ち、甘くささやいた。

「ねぇリーダー、今度の課題の出来も完璧でしょ。身体を触ってもいい?僕がなんでもやってあげるよ」

「駄目だ。俺の身体には一切触れるな。命令された事だけをやれ」

途端にハビシュは、人形のように真っ白な真顔になった。

「じゃあ楽になれる薬をちょうだい。なんでもいいや、気持ちよくなれるやつ」

「駄目だ。次の課題をこなしたら部屋で休め。起きたら昼食をとって、次は外での任務だ」

ハビシュは肩を落として、床の上に座り込んだ。

「ここではみんな、僕を馬鹿にしない。でも誰も僕に触ってくれない。僕の身体は必要ない?やっぱり僕はみんなにとって、価値がないのかな」

「必要なのは、課題と任務をこなす事。お前のこなした課題の結果は優秀だ。お前はみんなの期待にうまく応えている」

うんざりした顔でハビシュは答える。

「じゃあ触ってよ⋯⋯別に笑われたっていいよ」

キュイは視線を向けずに、端末を操作しながら言った。

「駄目だ。お前の尊厳を侵害する権利はどこの誰にもない」

ハビシュは声を出して笑い、胸を掻きむしりながら言った。

「ユニはやったよ。ユニに殺された研究者たちも。みんなでよってたかって、僕を⋯⋯」

「昔の自分に戻りたいのか?」

間髪入れず、キュイがハビシュの言葉を制した。

ハビシュは頭を掻きむしり、うめき声を上げた。

「ナ、ナックルズ。ナックルズに会いたい。ナックルズは話を聞いてくれた。ナックルズは、自分で決めろ、お前の戦いなんだろって⋯⋯」

頭を押さえ、床に転がりながら、ぐしゃぐしゃに泣きわめく。

キュイは表情を崩さず、静かにゆっくりと命令した。

「諦めるな。お前の居場所もやるべき事も、ここにある。⋯⋯課題をこなせ」

「⋯⋯うん⋯⋯」

「課題をこなして、寝ろ。お前の部屋で一人で。ここに恐れるべきものはない。誰もお前を傷付けない」

「⋯⋯わかったよ。うまくやるよ。起きたらカフェオレをもらっていい?」

ハビシュは起き上がり、顔をぬぐった。

「課題の結果がよければ、チョコレートを添えておいてやる」

ハビシュは、数日前にエンジェルアイランドで飲んだ、ナックルズのフルーツジュースの味を思い出した。

(課題が終われば、甘いカフェオレが飲める。フルーツジュースは⋯⋯今は、手に入らない。⋯⋯いいや。二度と手に入らないのかもしれない)

午後の任務が終わった後、ハビシュは地下施設のエントランスでナックルズを見つけた。

途端に嬉しくなって、ナックルズに駆け寄ろうとしたが、キュイから「ナックルズと会話しろ」とは命令されてない事に気づき、慌ててナックルズに背を向けた。

(命令はちゃんと聞くよ、リーダー。でも僕はここでどれだけ頑張っても、ユニもいないし、ひとりぼっちだよ)

後ろから肩を叩かれ、ハビシュは振り向いた。

赤い毛並みのハリモグラ──ナックルズが、ギョロリとした目でハビシュを覗き込んでいた。

「うわぁぁあ⋯⋯」

驚いて、その場に座り込んだ。

「よう、ハビシュ。元気にやってるか?」

ナックルズのまっすぐ明るい声がハビシュの耳に突き刺さる。

ハビシュは前のめりになって、すがるように早口でまくし立てた。

「元気じゃないよぉ。課題と任務ばっかやってんだ。リーダーは僕を優秀だって言ってくれる。でも誰も僕に触らない。別に壊れたっていいじゃんか。誰も悲しまないよ。僕も悲しくない。やっぱり生きてるだけじゃ意味ないよ。僕は死んだほうがいいのかな」

そこまで言って、ハビシュは虚ろな瞳で虚空を見つめた。

「エージェントとしてやっていくと決めた。僕はこの世界に座標を持つ。でもデータを入力したって出力がないんじゃあ、そのデータに存在意義なんてないんだよ⋯⋯」

ハビシュはぶつぶつと独り言をつぶやいて、両腕を投げ出した。

エントランスを行き交うエージェントたちが、チラチラと座り込んだハビシュを見ながら去っていく。

ハビシュは笑った。

「ははは。ほら、誰も触れようとしない。僕が存在する意味なんてないよ。可笑しいね」

ナックルズはじっとハビシュを見ていたが、その場から動かず、静かに言った。

「お前が死んだら、俺とソニックは悲しむぞ」

ハビシュはびっくりした。

「どうして?」

ナックルズは、キョロキョロと辺りを見回し、通路の端までハビシュを引っ張っていくと、しゃがんで小声で言った。

「お前はわざわざ俺を助けるためにコルタリアまで出向いたんだろ。あの時、俺がお前の目の前で死体になって転がってたら、お前はどう思う?同じ事だろうが」

ハビシュは目を見張って、うつむき、もじもじと身体を縮めた。

それから、弾けたように両手を差し出し、思いの丈をめちゃくちゃに放り投げた。

「ユニはみんないなくなったのに、僕だけ生きのびてる。こんなにくだらない事ってないよ。ゴミみたいな現実だ。ただ呼吸してるだけの残りカスに何をしろっていうんだよ。身を粉にして働いた後に残るものって何だろう。答えは虚無。残された使命はたったひとつだ。必要なものはトリガーの軽い拳銃か、よく研いだナイフ」

思いがけずナックルズに会えて、今まで内側に溜め込んでいた何かが、針を刺された風船のように、急激に外側に飛び出してきた。

「⋯⋯散歩でも行くか。ついて来いよ」

唐突に、ナックルズはそういうと、ハビシュに背を向けてエントランスの外へ出ていった。

ハビシュはしばらく固まっていたが、ナックルズの背中がエントランスの扉の向こうに消える前に、慌てて飛び出し、ナックルズを追いかけていった。


ナックルズは散歩に行くふりをして、ハビシュに秘密の任務を依頼した。

とある遺跡の秘宝を盗み出した盗賊の情報を入手したので、捕まえて秘宝を取り返したいという内容のものだった。

「秘宝っつっても、そこまで高い価値があるものでもねぇしな。世界政府が強い興味を持つとは思えねぇねど⋯⋯ハビシュ、お前ならどうだと思ってよ。一緒に追いかけてみねぇか?」

ハビシュは両目をギョロギョロと動かし、考えた。

(リーダーからは、命令された事だけをやれって。ナックルズにこうして黙ってついてきちゃった時点で、僕は処分対象だ)

ハビシュはいっそう両目をギョロギョロさせて、考えた。

(ユニはもういない。役立たずの僕だけひとりぼっちで生きてる。この世界に意味なんてない。僕も死んで、この虚無感すらゴミ箱に投げ捨ててしまおう)

(どうせ死ぬなら、ナックルズと一緒に秘宝ハントをしてから死にたい。どうせ死ぬんだから、リーダーの命令なんて⋯⋯)

ハビシュは無心でコクコクとうなずいた。

そうして、二人は秘密で盗賊団のアジトを突き詰め、北の辺境の炭鉱都市の地下トンネルへ潜入した。


炭鉱の中で、二人は盗賊団のアジトに潜入し、秘宝をあっさりとみつけ、取り戻した。

「待って、ナックルズ。こいつらの使ってる情報端末を見つけた。ついでに、他の犯罪者とつながりがあるなら、芋づる式に何か情報がみつかるかもね」

ハビシュはそう言って、ハッキング用のツールを情報端末に仕込むと、スルスルと端末内のデータにアクセスして、根こそぎ情報を盗んでいった。

「お、流石エージェント。こんな時でも情報収集か。見かけによらず、ちゃんと正義感が強いんだな」

ナックルズが秘宝を小脇に抱えて、感心する。

ハビシュは今さら自身の行動の矛盾に気付いた。

(そうだ⋯⋯僕は死ぬつもりなんだった。こんな情報、盗んだってなんの意味もないじゃないか)

ハビシュは高速で手を動かしながら迷ったが、考えがまとまる前に全てのデータを盗み終えてしまったので、趣味で作った秘匿アカウント経由で、送信元が特定できないように、こっそりとキュイにデータを送信した。

その時、隠れていた盗賊の残党が何かのスイッチを押した。

低い天井の隙間に隠れていたパイプからガスが吹き出す。

咄嗟にナックルズはハビシュを抱えて残党を殴り飛ばし、通路に飛び出たが、ニ、三歩駆け出し、前のめりに倒れた。

ハビシュは慌てて起き上がり、ナックルズを見る。ナックルズの身体が痙攣している。

「ち⋯⋯ちくしょ⋯⋯う」

ナックルズはうめいて、そのまま動かなくなった。

隠れて様子を見ていた盗賊の残党がワラワラと出てくる。ハビシュはナックルズの前に立ち、両手を身体の前でふわふわと踊らせた。

ハビシュの指から白い煙が湧き上がり、敵に襲いかかる。

手前の敵がうめきながら倒れていく隙に、ハビシュはナックルズを抱えて通路の奥側へ退避した。

「ユニほどの威力はないけど。僕もちょっとした遺伝子攻撃はできるんだぁ。この能力、世界政府には秘密なんだけどねぇ」

ハビシュは気絶したナックルズに向かって話しかけながら、通路を走って逃げていく。

追っ手の撃った銃声が響いた。

「ここは狭い地下通路だ⋯⋯むやみに銃なんか撃っちゃ、危ないよぉ」

ハビシュは薄ら笑いを浮かべながら、曲がり角の隙間に隠れて、白い煙を追っ手に向かって吹き出した。

白い煙が敵のマズルフラッシュで引火し、激しい誘爆を引き起こす。

ハビシュはケタケタ笑いながら、さらに奥へと逃げる。

小さな倉庫を見つけ、隙間にナックルズを入れ、自らも入り、扉を締めた。

「ねぇナックルズ。出口側に残党が固まってるみたい。君を守りながら、僕一人で突破するのは、ちょっと無理かなぁ」

ハビシュは気絶しているナックルズの頭をそっと撫でた。

「さっきパイプから出たガスは、睡眠薬だねぇ。僕は曲がりなりにも究極生命体の模倣体だから、緩い毒なんて効かないんだぁ。君は相変わらず毒や薬に弱いんだね。健全で、可愛い身体をしてるんだなぁ⋯⋯」

ハビシュは、ナックルズの赤いドレッドロックをそっと掻き分け、耳元でささやいた。

「ねぇ⋯⋯ナックルズ。最期に⋯⋯君との思い出、欲しいなぁ⋯⋯」

ハビシュがナックルズの胸元に手を伸ばす。

その時、

ナックルズが眉間にしわを寄せながら、うわ言のように小さくうめいた。

「ハ、ビシュ。に⋯⋯⋯にげ⋯⋯ろ」

ハビシュの手が止まる。

「ウウッ⋯⋯⋯」

ハビシュは頭を押さえ、小さく丸まって震えた。

「ウウウ⋯⋯⋯ぼく、僕は⋯⋯⋯」

暗い倉庫の中で、ハビシュは、ひとりぼっちですすり泣いた。

ナックルズの静かな寝息が聞こえる。

ハビシュは声をひそめて泣きながら、しばらくその寝息だけを聞いていた。

やがてハビシュは、涙をぬぐい、情報端末を取り出し、素早く操作を始めた。

「わかったよ、ナックルズ。僕は自分の意思でここに来た。自分で決める。これは僕の戦いだ。君を助けるために、僕が生きていくために、うまくやるよ」


それからしばらくハビシュは、倉庫の中で丸まって動かずにいた。

遠くで激しい戦闘音がする。

聞き馴染みのある滑走音が外から聞こえ、ハビシュはナックルズを抱えて、倉庫の外に出た。

「シャドウ。よかった。待ってたよぉ⋯⋯⋯」

「ナックルズは無事か」

ハビシュは薄ら笑いを浮かべて、ナックルズをシャドウに引き渡した。

ハビシュは情報端末からメッセージを送り、シャドウに助けを求めたのだった。

シャドウはナックルズの呼吸、脈拍、怪我の有無を確認すると、改めてハビシュをにらみつけた。

「怒らないでよぉ。僕はナックルズに誘われてここに来たんだ」

「お前は僕と同じ、危険レベルMAXの重要人物で、新人エージェントの立場。任務外の勝手な活動は処分対象のはずだ」

「処分はされたくない。リーダーにも怒られたくない。⋯⋯やっぱり僕は、エージェントとして生きていく。だからシャドウ、秘密で君に助けを求めたんだぁ⋯⋯」

ハビシュが卑屈にヘラヘラ笑う。

シャドウは殺気を漏らしかけたが、ゆっくりため息をつき、ナックルズを抱えたまま、ハビシュに肩を突き出した。

「カオスコントロールで脱出する。肩につかまれ」

ハビシュはナックルズに挨拶はせず、そのまま地下施設へと帰還した。

シャドウはハビシュから本件の詳細を引き継ぎ、秘宝の保護、盗賊の捕縛、その他事後処理を担当した。

「ねぇシャドウ。僕が勝手にナックルズと活動した事、リーダーには秘密で⋯⋯」

「キュイはとっくに知っているぞ。匿名で盗賊の情報端末から大容量データを盗んで送信したのはお前だろう」

「⋯⋯⋯⋯なんで、ばれたの⋯⋯⋯」

「上手くやり過ぎたな。次からは証拠を残さず完璧にやるより、下手くそなアマチュアがやったかのような不完全さを造りあげる事だ」

ハビシュはがっくり肩を落として、施設の中へと入っていった。


ハビシュは結局、キュイからは叱られなかった。特に処分もない。

ただひたすらに、課題と任務をこなすだけの灰色の日々が続いた。

「ねぇリーダー。今日の課題も上手くやったよ。肩を揉んであげようか。それとも僕の肩に触ってみる?」

「触るな。課題は合格だ。カフェオレを飲んだら次の課題をこなせ」

「触ってよぉ〜〜」

「チョコレートは二つつけておいてやる」

キュイは無表情で端末を操作していたが、ふと思い出したような顔をし、小包から小さな石を取り出し、ハビシュに手渡した。

「ナックルズからお前に。島で見繕った石。お守りにしろ、だそうだ」

ハビシュは手の中の石を見た。

丸くて、赤褐色の、どことなく温かな重みのある小石。

「フフ⋯⋯⋯ンフフ⋯⋯ナックルズの石。僕がナックルズからもらった、丸くて小さな、お守りの石」

ハビシュはカフェオレを飲みにリフレルームへ向かった。

足取りは軽い。

世界は明日も灰色かもしれない。

それでもハビシュは、小石を握りしめて寝る今日の夜が、楽しみで仕方がなかった。