森の棺 上

魂の周回、一週目。

Terra本編のシャドウとナックルズの魂がファンタジー世界に転生したお話。本編での記憶は肉体に残っていませんが、お互いが運命の番(つがい)である事は魂が記憶しています。

この世界はオリジナルのソニックの世界とは全く異なる異世界であり、エンジェルアイランド、テイルス、セージなどが登場しますが、原作の設定とは全く異なります。

シャナコで、失われたナックルズの記憶を取り戻すために、シャドウがあらゆる世界を旅するお話です。

第一章 忘れられた記憶の箱

マスターエメラルドの祭壇を包む風が、いつもより冷たく感じられた。

エンジェルアイランド――

その中心で、赤い毛並みのハリモグラは黙って空を見上げている。

風に揺れる長いドレッドロック、強靭な腕、鋭い瞳。どこからどう見ても、ナックルズ・ザ・エキドゥナであることに変わりはない。

⋯⋯なのに。

「本当に、覚えていないのか」

低い声が、彼の隣から落ちた。

黒と紅の毛並みを持つハリネズミ――シャドウは、マスターエメラルドとナックルズの顔を、何度も確かめるように見比べていた。

けれど、何度見つめ直しても結果は変わらない。

ナックルズは、シャドウを見る目に、どこかよそよそしい影を滲ませている。

「悪いな、シャドウ。お前のことを知らないわけじゃない。ソニックやテイルスから話は山ほど聞いた。お前がどんな奴で、どんな戦いをしてきたのかも」

ナックルズは淡々と言う。

その声音には、嘘はない。ただ――

「でも、“俺たち”のことを聞かれると、何も浮かんでこない。⋯⋯悪い」

胸の奥が、音を立ててきしんだ。

――俺たち。

かつて、当たり前のようにそう呼んでいた日々があった。

マスターエメラルドを巡る戦いも、空を裂くカオスエネルギーの奔流も、夜明け前の星空も。

シャドウにとって、それはすべて「ナックルズといた時間」だった。

なのに、その片方の記憶だけが、綺麗に消えている。

「原因が、ようやく分かったんだ」

横から静かな声が差し込んだ。

遠巻きに様子を見守っていたテイルスが、古びた端末を胸に抱えながら、こちらに歩み寄ってくる。

「ナックルズの記憶、そしてマスターエメラルドの守護者としての力。そのどちらもが、太古から伝わる“呪いの箱”に封じられているみたいなんだ」

「呪いの⋯⋯箱?」

ナックルズが眉をひそめる。

テイルスは携帯端末の画面を操作しながら、スクリーンに古代文字の解析結果を映し出した。

「僕が遺跡や古文書を片っ端から調べて分かったのは――『記憶の箱』と呼ばれる、エキドゥナ族ゆかりの禁忌のアーティファクトの存在だ。エメラルドと守護者の“関係”を断ち切るために作られた、呪いの道具……」

シャドウは画面を一瞥し、すぐにナックルズに視線を戻した。

呪いの箱。

そこに封じられたのは、ただの記憶ではない。

エンジェルアイランドを浮かべ続ける使命感、マスターエメラルドと共に在り続ける誇り。

そして――あの星降る夜、互いに確かめ合ったはずの、二人の気持ち。

「つまり、その箱を見つければ⋯⋯全て元に戻せるってことか?」

ナックルズの問いに、テイルスは重くうなずいた。

「理屈の上ではね。ただ、その箱はどこかに封印されている。時空の歪みや、古代の結界の向こう側かもしれない。普通の探し方じゃたどり着けないよ」

「行く」

シャドウの返事は、呼吸よりも早かった。

テイルスもナックルズも、その言葉の鋭さに目を見張る。

黒いハリネズミは、夜のような瞳でまっすぐナックルズを見据えた。

「君の記憶が⋯⋯君が君であるために必要なものが、箱の中にあるのなら。それを取り戻すのは、君じゃなくてもいい。僕がやる」

「な、なんでだよ」

ナックルズが少し戸惑ったように目を見開く。

「そんな危険な旅、なんでお前がわざわざ――」

「理由なんて、ひとつで充分だ」

シャドウは視線を逸らさない。ナックルズだけに向けられた、静かな熱がそこに灯っていた。

「僕が、君を選んだからだ」

ナックルズは言葉を失う。胸のどこかがざわつく。

意味が分からない。

けれど、今の自分が知らないだけで、昔の自分は、その言葉の意味を知っていたのかもしれない。

テイルスは、ふっと寂しそうに笑みを浮かべた。

「シャドウ⋯⋯君ひとりで行くつもりなんだね」

「当然だ」

返事は即答だった。

「これは、僕の選択だ。テイルス。君たちには、ここでナックルズを守っていて欲しい」

ナックルズは唇をかみしめた。

――どうして、そこまで。

どうして俺のために、そこまで決意した顔ができるんだ。

答えは、やはり分からない。

分からないことが、苦しかった。

けれど、その苦しみの理由も、きっとあの箱の中に置き忘れてきたのだと思うと、胸の奥に、つかみきれない焦りだけが鉛のように重く残った。

シャドウは、ひとり決意を固めていた。

ナックルズの記憶も、守護者としての力も。

あの夜、互いに告げたはずの想いも。

そのすべてが閉じ込められた呪いの箱を求め、彼は長い旅に出る。

たとえ、自分の命を投げ出すことになろうとも。

それが、今も変わらず胸に燃え続ける誓いの形なのだと、シャドウは信じていた。

ただひとつ、彼が強く願うのは──その旅路の重さが、ナックルズの肩をさらに押し潰す枷にならないこと。

自分の気持ちごと、彼に背負わせるわけにはいかない。

だからこそ、シャドウは何も告げない。

“好きだ”のひと言すら飲み込んだまま、影のように静かに、旅立ちの準備を始めた。

ナックルズは、そんなシャドウの背中を見つめながら、ただひとつの問いだけを、心の奥で繰り返す。

――俺は、本当はどんな顔をして、お前の隣に立っていた?

答えの入った箱は、まだ遠いどこかにある。

そして、シャドウの片想いの旅路が、今まさに始まろうとしていた。

第二章 星降る夜の約束

その夜、エンジェルアイランドの空は驚くほど澄み渡っていた。

マスターエメラルドの輝きをも霞ませるほど、星々が空一面に瞬いている。

ナックルズは祭壇の縁に腰を下ろし、膝を抱えて空を見上げていた。
隣には、シャドウが立っている。

「綺麗な夜だな」

ナックルズがぽつりと漏らすと、シャドウは静かにうなずいた。

「そうだな。覚えていないだろうけど――君は、星がよく見える夜が好きだと言っていた」

「⋯⋯そうか」

胸のどこかが、きゅっとつままれたように痛む。知らないはずの懐かしさが、星の光と一緒に胸に降り積もっていく。

沈黙が、夜気と共に二人を包んだ。やがて、シャドウが口を開く。

「ナックルズ」

「ん?」

「約束をしよう」

シャドウは、一歩だけ彼のそばに近づく。星明かりが、彼の紅と黒のシルエットをくっきりと縁取った。

「僕が必ず、君の記憶を取り戻す」

その声音は、静かで揺るぎなかった。

宣言というより、誓い。

星空とマスターエメラルドと、そしてナックルズ自身に向けての。

ナックルズは、思わず笑ってしまいそうになった。あまりにも真っすぐで、あまりにも無茶な約束だった。

「⋯⋯じゃあ、その時、俺はお前に何をしてやればいい」

冗談めかして訊いたつもりだった。

しかし、シャドウはふざける様子もなく、少しだけ目を伏せる。

「きっと君は、自由になれる」

「自由?」

「今はまだ、何もかもが呪いに縛られている。マスターエメラルドと、エキドゥナ族の因果と、失われた記憶と⋯⋯それから」

一瞬、言葉が途切れた。

「⋯⋯それから?」

ナックルズが首をかしげる。シャドウは、ほんのわずかだけ笑った。

「君に全部、託す」

「託す?」

「君が、本当に望む未来を選べるように。僕は、箱を見つけて、記憶を取り戻すところまでは君を見届ける」

ナックルズは眉根を寄せた。

「なんだよそれ。まるで、お前はそこまで行ったら消えるみたいな言い方じゃねえか」

シャドウは短く息を呑んだ。

しかし、すぐにいつもの無表情へと戻る。

「そんなことは、今考える必要はない」

「あるだろ」

ナックルズは立ち上がり、シャドウの正面に向き合った。

たとえ記憶がなくても、その性格までは変わらない。納得できないことは、いつだって真正面から問いただす。

「お前、本気で命賭ける気だろ。テイルスの話じゃ、その箱とやらが置かれてそうな場所は、普通じゃたどり着けねえ、危険なとこばっかなんだろ?」

「危険なのは、慣れている」

「そういう問題じゃねえ!」

大声が夜空に跳ね返る。

ナックルズ自身、驚いていた。ここまで感情的になる理由が、うまく言葉にならない。

――でも、失うのは嫌だ。

理由なんて、分からなくてもいい

その感情だけは、本能の底からはっきりと湧き上がってきた。

「お前が行きたいってのは止めねえよ。けど“託す”とか、命を投げ出すとか、そういう顔はやめろ。⋯⋯見てて、気分が悪い」

シャドウは、少しだけ目を大きく見開いた。ナックルズにとっては精一杯の言葉だった。

心配、恐怖、焦燥――それらの感情を「気分が悪い」という荒っぽい表現でしか出せないのが、ナックルズらしかった。

シャドウの胸に、温かくも苦い何かが広がる。

――やっぱり君は、変わっていない。

記憶を失っても、根っこにある優しさも、不器用さも、きっと変わっていない。
だからこそ、その肩に自分の想いまで背負わせたくなかった。

「⋯⋯ありがとう」

「は?」

思いがけない言葉に、ナックルズは目を瞬く。

「君が、僕の旅路を心配してくれるのが、嬉しい。記憶がなくなっても、君は君だ」

シャドウはほんの一瞬、手を伸ばしかけて――

その手を、空中で止めた。

触れてしまえば、きっと戻れなくなる。この胸に溜め込んできた想いを、抑え込めなくなる。

「でも、僕は行く。君に、選べる未来を返すために」

ナックルズは、何も言えなかった。

星空の下、ただシャドウの瞳を見返す。

互いの視線が絡まり、夜風が二人の間をすり抜けていく。

その距離は、近いようで、どこまでも遠かった。

やがてシャドウは、くるりと背を向ける。

「ナックルズ」

「⋯⋯なんだ」

「待っていてくれるか」

その問いには、いくつもの意味が込められていた。

守護者としての責務を、ここで果たし続けるという意味。記憶を取り戻すその日まで、この場所で生き続けるという意味。

そして――いつの日か、自分の隣に再び立ってくれるかという意味。

ナックルズは、ほんの少しだけ迷ってから、力強く頷いた。

「ああ。俺はここを離れられない性分らしいからな。戻ってくる場所ぐらい、用意しといてやる」

シャドウは、振り返らないまま、わずかに肩を震わせた。それが笑いなのか、別の感情なのか、自分自身にも分からない。

「⋯⋯約束だ」

そう呟き、彼は夜の闇へと歩み出す。

星の光を背中に受けながら、音もなく足を進めていく。

ナックルズは、その背中が見えなくなるまで、ずっと立ち尽くしていた。

胸の奥のどこかが、強く疼いている。その痛みの名を知らないまま、拳を握りしめた。

――どうか、無事で。

それは、記憶をなくしてなお、ナックルズの心の底に残り続ける祈りだった。

第三章 時間旅行者の恋

時空は、形を持たない迷路のようだった。

カオスコントロールで開いた亀裂をくぐるたび、景色は変わる。

荒れ果てた未来都市、建設途中の研究施設、湖に沈みかけた古代の神殿。

過去と未来と異世界が、渦を巻いてシャドウの前に広がっていた。

それでも、彼の心はひとつの場所から離れない。

どんな時代の空を仰いでも、浮かぶのはエンジェルアイランドの星空だった。

どんな世界の風を浴びても、思い出すのは赤い拳が差し出した、不器用な支えだった。

「⋯⋯ナックルズ」

名を呼ぶたび、胸の奥に、甘く鋭い痛みが走る。

たとえ今のナックルズの心に自分がいなくとも、自身の心には、はっきりとナックルズが刻まれている。

ある世界では、人々が色鮮やかな衣装に身を包み、華やかな夜会が開かれていた。

シャドウは情報を得るため、その宴の中に紛れ込む。

その場違いな黒と紅の姿は、すぐに目立った。やがて、銀の鈴のような笑い声と共に、ひとりの踊り子が近づいてくる。

「ねえ、そこの綺麗なハリネズミくん。一曲、踊らない?」

彼女はしなやかな尾を揺らし、瞳に妖しい光を宿して微笑む。

その誘いを断れば、きっと場の空気が変わる。しかし、シャドウは一歩、引いた。

「悪いが、そういう気分じゃない」

「ふうん?」

踊り子は、興味深そうに彼を見つめる。

「じゃあ、誰か他に大事な人がいるのね」

シャドウは一瞬、言葉を失う。足元がふわりと揺らいだような感覚に陥る。
しかし、すぐに小さく笑った。

「⋯⋯誓いを立てた相手がいる」

「誓い?」

「それがあるから、僕はここまで歩いてこられた。それがなければ、とうにどこかで倒れていた」

踊り子は、それ以上追及しなかった。ただ、肩をすくめて笑い、彼の背中を軽く押す。

「だったら、踊ってる暇なんてないわね。その誓いの相手のところへ、さっさと帰ってあげなさいな」

「⋯⋯そうする」

シャドウは静かに会場を後にした。足取りは、さっきよりも少しだけ軽かった。

――忘れられていても構わない。

シャドウにとって大切なのは、自分がどう扱われるかではない。ナックルズがナックルズに戻れるかどうか、その一点だけだった。

星降る夜に交わした約束を胸に刻んだまま、シャドウは再び時空の狭間へ飛び込む。

記憶の箱はまだ見つからない。しかし、彼の旅を支えているのは、苦しいだけの片想いではなかった。

いつか再び肩を並べて笑い合える――

そんな、ささやかな願いが、シャドウの背中を押し続けていた。

第四章 影を持つ少女

その頃、エンジェルアイランドには、別の影が落ちていた。

シャドウが旅立ってから、どれくらいの時間が経っただろう。

日々の守護の仕事は変わらない。マスターエメラルドの調子も、今のところは安定している。

⋯⋯なのに、胸の奥にはぽっかりと空洞があった。

「俺のせいで、あいつは今もどこかで危ない目にあってんのかもしれねえ」

ナックルズは祭壇の階段に腰を下ろし、拳を膝に落とす。拳を握っても、敵も、砕くべき岩も目の前には存在しない。

「なんでだ。どうして、俺を置いて一人で行っちまったんだ、シャドウ⋯⋯」

答えのない問いを繰り返した、その時。

ふと、空気が揺らいだ。

風が止み、鳥の鳴き声が遠のく。

祭壇の上に、薄い光の幕がふわりと揺れ、そこからひとりの少女が現れた。

「⋯⋯ナックルズ・ザ・エキドゥナ」

透き通る青い髪、どこか非現実的な光を帯びた瞳。少女の身体は、微細な電子の粒子で形作られているように見えた。

「お、お前は⋯⋯?」

「私の名はセージ」

少女は静かに名乗る。

「私は電影空間に生きる存在。電子の海を渡り、世界の情報に触れてきた」

ナックルズは眉をひそめる。その説明の半分も理解できた気がしない。

しかし、少女の瞳は真剣だった。

「⋯⋯どうしてここに来た」

「貴方のことを見ていたから」

「は?」

セージは、淡々と続ける。

「マスターエメラルドの守護者であり、今は力の半分を失われた戦士。そして、自分のせいで、大切な誰かを危険な旅へ送り出してしまったと、後悔している」

ナックルズは、思わず視線を逸らした。

「図星、かしら?」

「⋯⋯ああ」

認めざるを得ない。逃げ場のない言葉だった。

セージはそっと、祭壇の縁に近づく。

その小さな身体は風に揺れることなく、電子の光を淡く滲ませている。

「貴方が望むなら、私にも出来ることがある」

「出来ること?」

「シャドウのために。そして、貴方自身のために」

ナックルズは、セージの瞳を見つめた。その奥には、誰かに似た、強情な優しさが宿っていた。

「貴方の記憶は箱に封じられた。呪いの箱の封印を解かなければ、シャドウの旅は終わらない。でも、その封印の秘密は⋯⋯この世界のどこかに、必ず記録として残っている」

「記録?」

「古代の魔法図書館。呪われた森の奥に、それが眠っている。そこに辿り着けば、箱の秘密に触れられるかもしれない」

ナックルズは息を呑んだ。

シャドウは、ひとりで危険な時空の旅を続けている。

その彼のために、今の自分に何が出来るのか――ずっと探していた答えだった。

「⋯⋯本当に、シャドウの役に立てるのか」

「ええ」

セージははっきりと頷く。

「ただし、危険。呪いの本に触れれば、貴方にも相応の代償が求められるはず」

「そんなもん、今さらだ」

ナックルズは立ち上がる。拳を握り、マスターエメラルドを振り返った。

「俺の記憶を奪ったのは、その箱なんだろ。だったら、取り返しに行くのは当然だ」

魂の奥で、あの強い瞳を思い出す。

星降る夜に誓いを立てた、黒いハリネズミの横顔。

――あいつは、俺のために命まで賭けようとしている。

「セージ」

「ええ」

「連れて行ってくれ。その呪われた森とやらに」

セージの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「了解、ナックルズ」

電子の光が、二人の周囲を包んだ。

マスターエメラルドの祭壇が遠ざかっていく。

代わりに現れるのは、暗く、深く、囁き声のような風が吹き抜ける森の影。

こうしてナックルズもまた、シャドウとは別の道から記憶の箱へと向かう旅に出た。

ふたりの旅路は、まだ遠く離れている。

けれど、行き着く先は、きっと同じ場所だと、誰よりも強く信じていたのは――他ならぬ、ナックルズ自身だった。

第五章 禁じられた図書館

呪いの森は、光そのものを拒むようだった。

木々は空を覆い隠し、昼だというのに地面には影しかない。風が吹くたび、どこからともなく囁き声が聞こえる。

それが本当に風の音なのか、それとも森に宿る何かの声なのか、ナックルズには判別できなかった。

「気をつけて。ここは、空間もそこに潜む力も歪んでいる」

セージが、少しだけナックルズのそばに寄る。電子の身体は、森の瘴気に触れるたび、淡いノイズを走らせていた。

「歪んだ力、ねえ⋯⋯」

ナックルズは拳を握り、周囲を見渡した。

敵が見えるなら殴り飛ばせばいい。だが、この場所には形のある敵がいない。

その分、居心地の悪さは、これまで戦ってきたどんな怪物よりも厄介だった。

どれほど歩いただろうか。

やがて、木々の切れ間から、巨大な影が現れた。

それは、地面に沈みかけた古い建物だった。

崩れた石造りの柱、割れたステンドグラス。そこだけが、森から切り離された別の空間のような雰囲気を纏っている。

「⋯⋯あれが」

「呪われた魔法図書館」

セージは静かに頷く。

ナックルズは息を吸い込み、ゆっくりと扉に手をかけた。重たい扉は、きしみ声を上げながら、ゆっくりと開いていく。

中は、ひやりとするほど静かだった。

天井まで届く本棚が、迷路のように並んでいる。

古びた革表紙の本や、金属の板に刻まれた文字、誰が綴ったかも分からない羊皮紙。この場の全てが、時間という概念を忘れてしまったかのように、ただそこに在り続けている。

「箱の秘密は、この図書館に収められている“呪いの本”のひとつに記されているはず」

セージはすっと宙に浮かび、膨大な本棚を見回した。瞳が淡く光り、電子の情報が高速で走っていく。

「私が、該当する本を特定する」

「助かるぜ。正直、俺に本を探せって言われてもな」

ナックルズは苦笑しつつ、足元を確かめながら中へと進む。棚と棚のあいだを通り抜けるたび、背中に視線のようなものを感じた。

――見られている。

誰かがいる気配はない。それでも、ページが自分を値踏みしているような、妙な圧迫感があった。

「見つけた」

セージの声が、図書館の奥から響く。

ナックルズが駆け寄ると、そこにはひときわ異質な本があった。

周囲の本が色あせているのに対し、それだけは真新しい血のような赤黒い表紙をしている。

「これが、“記憶の箱”の封印について書かれた呪いの本」

セージは慎重な口振りで言った。

「ただ、注意して。この本は読んだ者を代償として求めるタイプの呪いを持っている」

「代償ね⋯⋯」

ナックルズは本を見つめた。さっきから、心臓の鼓動がうるさい。

――シャドウも、どこかで命を賭けてる。

自分だけ安全な場所にいるつもりはない。むしろ、ここで引いたら、彼の覚悟に顔向けできない。

ナックルズは、迷わず本に手を伸ばした。

指先が触れた瞬間、空気が変わる。

図書館の空間そのものが、低く唸り声を上げたような錯覚。

赤黒い表紙が、どくん、と脈打った。

「ナックルズ!」

セージの警告を聞くより早く、本は自らのページを開いた。

文字が、闇の羽虫のように紙面から舞い上がる。

古代語、呪詛、鍵、封印、エキドゥナ族――

無数の単語が、黒い旋風となってナックルズの周囲に渦を巻いた。

「ぐっ⋯⋯!」

頭が締め付けられる。視界が逆さまになり、心の奥に沈んでいた何かが掘り起こされる。

“マスターエメラルドと共にあることを選んだ日”

“己の血に刻まれた守護者の誇り”

“星降る夜、誰かと肩を並べて空を見上げた記憶”

断片的な光景が、痛みと共に脳裏をかすめていく。

「⋯⋯ああ、くそ。ちょっとだけ、思い出しそうで⋯⋯」

その瞬間、黒い文字の竜巻が爆ぜた。

図書館の床が消え、ナックルズの身体は光の中に飲み込まれていく。視界の隅で、セージが手を伸ばしているのが見えた。

「ナックルズ!」

「セージ! ⋯⋯心配すんな、どこに飛ばされたって、敵がいるなら殴り飛ばしてやるだけ――」

言い終わる前に、世界はぱきん、と音を立てて割れた。

次に目を開けた時、そこは奇妙な空間だった。

足元には、鏡のように滑らかな床。周囲には、どこまでも続く鏡の壁。天井にも、ナックルズ自身の姿が映っている。

「⋯⋯なんだ、ここは」

ナックルズが一歩踏み出すと、無数の“自分”も同じように一歩を踏み出した。

鏡の中から、声が響く。

“ここは代償の間。呪いの本を読み解いた者を封じ込める、鏡の牢獄”

「牢獄、ねえ。上等だ。出方はひとつだろ」

ナックルズは拳を構え、最も近い鏡に全力で拳を叩き込んだ。

だが、鏡は割れなかった。衝撃はすべて吸い込まれ、静寂が広がるだけだった。

“力では破れない。ここに囚われた者は、外には出られない”

「じゃあ、あの本を読んだ時点で、俺は詰みってわけか?」

“その通り。だが、その代わり――”

鏡の中のナックルズが、ニヤリと笑った。

“記憶の箱の封印の鍵が、世界に解き放たれた”

「鍵が⋯⋯」

“お前が、呪いを一身に引き受けてくれたおかげでな”

ぞくり、と背筋が冷える。

それと同時に、胸の奥には小さな安堵も灯っていた。

――鍵を、きっとシャドウが見つけてくれる。

シャドウなら、きっと気づく。

あいつのことだ、諦めるなんてありえない。

自分がここに閉じ込められていることすら、嗅ぎつけて助けにくるかもしれない。

ナックルズは、鏡の中の自分を睨みつけた。

「いいぜ。ここが牢屋だってんなら、好きなだけ閉じ込めてろ」

“恐怖はないのか”

「あるさ」

即答だった。

「シャドウが、俺のせいで傷だらけになって帰ってくるかもしれない。もしかしたら、帰ってこられないかもしれない。それが怖くないわけねえ」

鏡の中の自分が、言葉を失う。

「けどな――何もしねえで、外で突っ立ってるだけの俺のままよりは、ずっとマシだ」

ナックルズは、鏡の床に腰を下ろした。膝に腕を乗せ、顎を預ける。

「待ってるぜ。あいつなら、きっとここまで辿り着く。だったらせいぜい、出会った時に笑えるくらいの覚悟ぐらいは決めておかねえとな」

鏡の牢獄は、再び静寂を取り戻した。けれど、その静寂の中心で、ナックルズの瞳だけが力強く光っている。

それは、孤独と恐怖の中でなお――誰かを信じて待つ者の目だった。

第六章 海の底の秘密

一方その頃、シャドウは世界の果ての海を見下ろしていた。

荒れ狂う波が、断崖絶壁にぶつかり、白い飛沫を上げている。そのはるか下――濃い青の底に、巨大な影が揺れていた。

「⋯⋯あれが、海底神殿か」

海辺で歌っていた精霊の力を借り、海中に降り立った瞬間、その存在感は一層はっきりした。

荘厳な柱、貝殻と珊瑚に覆われた塔、海流に揺れる巨大な門。

まるで海そのものが、ひとつの都市を形作っているかのようだ。

神殿の中心には、重々しい玉座があった。

そこに座っていたのは、逞しい体躯と、海そのもののような眼差しを持つ存在――海神ポセイドンだった。

「⋯⋯冥界の扉に挑む者かと思ったが、来たのは陸の子か」

低く響く声が、神殿全体を揺らす。

シャドウは怯むことなく、玉座の前に立った。

「お前が“記憶の箱”の在り処を知っていると巷の噂で聞いたので、教えてもらいに来た」

ポセイドンは興味深そうにシャドウを見下ろした。

「在り処は知らぬが、触れるための道筋なら知っている。ただ教えるのは面白くない。我が家臣たちとの決闘に勝てば、その報いとして教えてやろう」

返事を待つまでもない。シャドウは無言で構えを取った。

海の底での戦いは苛烈だった。

巨大な海蛇が渦を巻き、電撃を放つウツボが襲いかかる。槍を持った戦士たちが、水流を操りながら突進してくる。

そのすべてを、シャドウは読み切り、受け止め、かわし、打ち倒した。

カオスコントロールと自らの身体能力だけを頼りに、何度も押し寄せる波のような攻撃を乗り越えていく。

やがて、最後の一撃を叩き込んだとき、神殿に静けさが戻った。

ポセイドンは満足げに頷いた。

「見事だ。では約束通り、“記憶の箱”へ触れるための道筋を教えよう」

神の指し示したのは、遠い世界の一角だった。

砂漠、雪原、森――そこに続く道筋が、ぼんやりと光の線となってシャドウの視界に映る。

「その先に、お前の探すものがある。だが――」

ポセイドンが言葉を継ぐ前に、別の声が割り込んだ。

「ねえ、お父様。私にも、少しぐらい遊ばせて」

水の中を滑るように現れたのは、若い乙女だった。透明な鰭を揺らし、髪は水草のようにふわりとなびいている。

「ベントシキューメ」

ポセイドンが娘の名を呼ぶ。
彼女はくすりと笑い、シャドウの前まで近づいてきた。

「私、秘密と幸運の交換が大好きなの。あなたが“ひとつだけの秘密”を教えてくれるなら――代わりに“ひとつだけの幸運”をあげるわ」

「幸運?」

シャドウは目を細める。

「あなたの旅路は、これからもっと厳しくなる。時間も、世界も、感情さえも試されることになる。その途中に、小さな分岐点がいくつも訪れるの。私の幸運は、そのどこかひとつで、あなたの背中をそっと押してあげられる」

彼女は楽しそうに笑った。

「どう? 悪くない取り引きだと思わない?」

「秘密を教えればいいだけか」

「ええ。⋯⋯あなたの心の一番深いところに隠している、誰にも言っていない“本当の気持ち”が聞きたいな」

胸が、鋭く刺されたように痛んだ。

ポセイドンは口を挟まない。それは、父でありながらも、彼女の“役割”を尊重しているのだろう。

シャドウは、少しの間だけ黙り込んだ。

やがて、静かに口を開く。

「⋯⋯記憶の箱の封印が解けて、ナックルズの記憶が戻ったとする」

ベントシキューメの瞳が、興味深そうに揺れた。

「彼は、マスターエメラルドの守護者としての力を取り戻し、エキドゥナ族の誇りも、過去もすべて思い出すだろう。その時――」

声がわずかに震えた。シャドウは、それを力ずくで押さえ込む。

「その時、もしも僕の存在が、彼にとっての枷になるなら」

海の底の神殿で、時が止まったように感じた。

「僕は、彼のために、僕を消す。彼がそのほうが自由になれると感じるなら、喜んでそうしよう」

ベントシキューメは、しばらく黙っていた。

やがて小さく微笑む。

「ねえ、それは愛と呼ばれるものなのかしら?それとも、⋯⋯呪い?」

シャドウは答えなかった。

答えられなかった。

彼女は満足したように手を叩く。

「うん、いい秘密ね。気に入ったわ」

海の水が柔らかく揺れる。

彼女の身体から、細かな光の粒が放たれ、それがシャドウの胸の奥へと沈んでいく。

「約束通り、“ひとつだけの幸運”を授けておくわ。いつ、それが使われるのか、私にも分からない。でもきっと、あなたが一番必要としている瞬間に、開かれるはず」

シャドウは静かにうなずいた。

その姿を、ポセイドンもまた、どこか感慨深げに見つめていた。

「こちらへ来い、陸の子よ。ひとつの予感がする。お前の歩みは、“鏡の向こう側”へと通じていることだろう」

シャドウは、ナックルズの名を胸に浮かべる。

鏡――その言葉が、自分を呼んでいる気がしてならなかった。

第七章 鏡の中の世界

ベントシキューメの案内に従い、シャドウは海神殿の奥深くにある一室へと案内された。

そこには、古びた鏡がひとつだけ置かれていた。額縁には、見慣れた紋様が刻まれている。

エキドゥナ族の、古い紋章だった。

「これが、お父様の予言。あなたを“向こう側”に導く鏡だよ」

ベントシキューメがささやく。

「この鏡の向こう側には、あなたの想い人の気配がある。でも、その前に――」

彼女はシャドウの前に回り込み、真剣な眼差しで見上げた。

「約束して。彼を救うこと。彼を見捨てないこと。――そして、彼の心から、決して目を逸らさないこと」

その言葉は、まるで呪文のように重かった。

シャドウは鏡に視線を向け、そして頷く。

「そんな約束、今さら改めて言葉にするまでもない」

ベントシキューメは、まっすぐな瞳をシャドウに向けて、言葉を放った。

「恐れの影に、進むべき道が隠されている」

それから、安心したように微笑んで言った。

「行ってらっしゃい、恋人想いで勇敢な、心優しいハリネズミさん」

シャドウは何も言い返さなかった。ただ、鏡へと手を伸ばし、その冷たい表面に触れる。

次の瞬間、世界が反転した。

光と闇が混ざり合い、上下左右の感覚が消える。ふいに足元に固い感触を覚えて、シャドウは静かに目を開けた。

そこは、鏡の牢獄だった。

どこまでも続く鏡張りの世界。天井も、壁も、床も、すべてが反射する。

その中心に、ひとつの赤い背中があった。

「⋯⋯ナックルズ」

呼びかけると、ナックルズがゆっくりと振り返った。

驚きと、安堵と、信じられないものを見るような戸惑いが、一度にその瞳に浮かぶ。

「シャドウ⋯⋯?」

「久しぶりだな」

どれだけの時間が経ったのか、シャドウにも分からない。しかし、目の前のナックルズが、いつも通りだという安心感だけがシャドウの心の中に満ちていった。

ナックルズは歩み寄ろうとして、足を止めた。

「まさかお前が、マジでこんなとこまで来ちまうとはな」

「ここで何をしているんだ」

「箱の鍵を手に入れるために、ちょっとな。世界のどこかに鍵が放たれたらしいんだが、鏡の中に閉じ込められちまった」

「相変わらず、無茶をする」

「お前にだけは言われたくねぇよ」

ナックルズが呆れた顔で言い返す。シャドウは微笑んだ。

「お前が一人で全部背負って、命まで賭ける気だってのは、あの夜分かったからな。だったらせめて、どっかひとつぐらい、俺にやらせろって思っただけだ」

シャドウは、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

「ありがとう」

「こっちの台詞だ」

ナックルズは、浅く息を吐いた。そして、不意に真顔になる。

「この鏡の牢獄は、俺一人じゃどうにもなんなかった。だが、お前が来たなら話は別だ。記憶の箱を開けるための“鍵”は、世界のどこかにあるらしい。ここを脱出して、それを探しに行こうぜ」

ナックルズが手を差し出す。シャドウは、一瞬だけ驚き、それから静かにその手を握り返した。

掌の温かさが、はっきりと伝わった。

「行こう。絶対に君の記憶を取り戻すと、もう決めているからな」

「ありがたいけどよ、なんか強引だな、お前」

そう言いつつ、ナックルズは少しだけ笑った。

二人は、手を繋いだまま鏡の迷路を歩き始める。

鏡は、二人の姿を無限に映し続ける。

過去の自分たち、未来の自分たち、もしも別の道を選んでいた自分たち――
そんな影が、そこかしこで揺れていた。

やがて、シャドウは静かに口を開いた。

「ナックルズ。君は、今何を一番怖れている?」

ナックルズは足を止めない。けれど、その問いには少しだけ間を置いた。

「⋯⋯そうだな」

彼は、握った手に力を込める。

「俺の記憶が戻ったら、お前が、俺の前から消えちまうかもしれねえってことかもな」

シャドウは、息を飲んだ。

「お前は、昔のことを全部覚えてるんだろ。俺たちが、どう歩いてきたかも、どんな約束をして、どんな喧嘩をして、どんな夜を越えてきたかも。⋯⋯それを全部思い出した時の俺が、何かを選んだ時。お前が、それを尊重するって顔で、笑って消えたりするんじゃねえかって思うとさ」

ナックルズは照れ隠しのように鼻を鳴らした。

「正直、ちょっと怖い」

シャドウは、言葉を失った。

ベントシキューメに打ち明けた“秘密”が、胸の中で疼く。

――記憶を取り戻した彼にとって、自分が枷になるなら、消える。

しかし、少なくとも今のナックルズは、それを望んではいないらしい。

「恐れの影に、進むべき道が隠されている」

シャドウは、ベントシキューメの言葉を思い出す。

「ならば、簡単だ」

「簡単?」

「怖い方向に進まなければいい。君が怖がっているのは、僕が消える未来なんだろう?だったら、そんな未来を選ばなければいい」

ナックルズは呆れたように笑い出した。

「お前、本当に勝手だな」

「知ってる」

「でも――」

ナックルズは、彼の方へ少し身を寄せる。

「そういう勝手さは⋯⋯嫌いじゃねえ」

その言葉を合図にしたように、足元が白く光り始めた。

二人が手を強く握り合い、目をそらさずにまっすぐ歩き続けると――鏡の向こう側から、まばゆい光が差し込む。

次に目を開けた時、二人は鏡の外に立っていた。

目の前には、豊かな大地と、爽やかな緑の地平線が広がっていた。

シャドウは、繋いだ手を離さなかった。ナックルズも、離そうとしなかった。

第八章 砂漠の中のオアシス

鏡の牢獄から解放された二人は、ポセイドンの導きに従い、世界の最西端にある石畳の町へ向かった。

そこは、砂漠と海の境目に立つ古い都市だった。

白い石の建物がぎっしりと並び、街角では水煙草の香りと香辛料の匂いが入り混じる。

占星術師の店は、路地裏の一番奥まった場所にひっそりとあった。

老いた占星術師は、シャドウとナックルズの顔をじろりと見てから、夜空に浮かぶ星を指さした。

「星の導きじゃ⋯⋯東の砂漠のどこかに、探し物へとつながる光が眠っておる。だが、砂はいつも形を変える。地図は通用せん。たどり着けるかどうかは――お主らの心の持ちよう次第じゃ」

「心、ねえ」

ナックルズが肩をすくめると、シャドウは静かに頷いた。

「行こう。どうせ、どの道を選んだって、楽な方なんてありはしない」

二人は砂漠へと足を踏み入れた。

昼は灼熱、夜は極寒。

砂は足を取るし、水はすぐ尽きる。

それでも、二人は文句ひとつ言わず歩き続けた。

ある日、空が急に暗くなった。

「⋯⋯砂嵐だ」

シャドウが顔を上げた瞬間、風が唸りを上げる。砂粒が刃のように肌を打ちつけ、視界を奪っていく。

「伏せろ!」

ナックルズは咄嗟に砂を掘り、浅い穴を作った。シャドウの肩を掴み、その中へ押し込むようにして身を伏せる。

そして、自分の身体を被せるようにして、上から覆った。

「やめろ、ナックルズ!」

「うるせえ。お前の方が軽いから、下な」

「そういう問題じゃ――」

砂嵐は容赦なく襲いかかる。
砂が背中に叩きつけられ、肌が焼けるように痛い。

それでも、ナックルズは動かなかった。

シャドウを守るように、ただ無言で砂を受け続ける。

「⋯⋯無茶をするなって、いつも言っているだろ」

「今さらだ。お前こそ、ひとりで海の底だの鏡の中だの飛び込んでいきやがって」

荒い息の合間に、ナックルズは笑った。

「たまには俺に守られてろよ」

その声は、砂嵐の轟音に掻き消されかけていた。

どれほどの時間が経ったか分からない。

やがて風が弱まり、砂嵐が去っていく。

シャドウが身体を起こしたとき――代わりに、ナックルズが力尽きたように倒れ込んだ。

「ナックルズ!」

肩を揺さぶると、腕に小さな赤い傷が見えた。そして、その傷の周囲が不気味な紫色に変色している。

視線の先の砂の上で、巨大な蠍が、煽るように尾を振りかざしていた。

「⋯⋯蠍の毒か」

シャドウの瞳が細くなる。

素早く蠍をつかみ上げ、その頭部を足元に叩きつけた。蠍の身体がわずかに震える。

「聞きたいことがある」

蠍に向かって言った。シャドウの声は低く冷たい。

「君を見逃す代わりに、ここから一番近い町を教えろ」

蠍は、何かに怯えたようにわずかに動いた。それが抵抗なのか、恐怖なのか、シャドウにはわからなかった。気にせずにらみつける。

「逃げても無駄だ。答えろ」

シャドウの手の先に、カオスエネルギーの光がこもる。

蠍は、観念したように砂の中へと浅く潜り、その動きで方角を示した。しばらく進むと、小さな岩が連なった方向へと、はっきりと町へと続く道筋が見える。

「助かった」

シャドウがそう告げると同時に、蠍の姿は砂の中へ消えていった。

ナックルズを背負い、シャドウは砂漠を歩き出す。

足は重い。

砂は容赦なく体力を奪う。

それでも、シャドウは一度も立ち止まらなかった。

やがて、地平線の向こうに、緑のオアシスが見えた。

水面に月明かりが映り込む、美しい泉。その周囲には、小さな町が寄り添うように築かれている。

手当てを受け、解毒の薬を飲まされたナックルズは、オアシスの一角にある寝所で静かに眠りについた。

シャドウは、泉のほとりに立っていた。

夜風が水面を撫で、月光が揺れている。

「鍵と箱⋯⋯」

水面へ向かってつぶやいた。

「あとどれだけの試練を越えれば、君のすべてを取り戻せる?」

返事はない。

代わりに、泉の奥底から、かすかな声が響いた。

――お前の大事なものをひとつ泉に落とすなら、お前の望むものをひとつ拾わせてやろう。

シャドウは、薄く目を細めた。

「誰だ」

――私は“智慧の泉”。この地に古くから在る、迷える旅人のための、問答の水脈。

泉の声は、ゆったりと揺れる水面の奥から響いてくる。

――お前の望みはひとつ。鍵の在り処を知りたいのだろう?

「もしも約束を違えたらどうなる」

――大いなる智慧を、お前に授けよう。

一見、矛盾した答えだった。だが、その言葉の裏にある意図を、シャドウは鋭く悟った。

「⋯⋯そうか」

彼は短く息を吐いた。

「では、賭けてみよう」

シャドウは、一歩、泉の縁に近づく。

大事なもの。それは、考えるまでもない。

迷いなく、泉へと己の身を投げた。

冷たい水が身体を包み込む。息が詰まり、視界が闇に覆われる。

――大事な身体を泉に差し出したな。

声が、水の中で響いた。

――だが、何も拾わせることはできない。“お前の望み”は、お前の命あってのものだからだ。

シャドウは、目を閉じたまま微笑んだ。

「⋯⋯だろうな」

シャドウの望み。それは、シャドウとナックルズ、二人で力を合わせて、ナックルズの記憶を取り戻す事だった。

泉が、高らかに笑った。

――ならば、授けよう。“お前”にではなく、“お前たち”に――望みを叶えるための、大いなる智慧を。

まばゆい光が、水の中で炸裂した。シャドウの身体は光に導かれるように、ゆっくりと水面へ向かって浮上していった。

ややあって、ナックルズが目を覚ました時、枕元にはシャドウが立っていた。

「⋯⋯おい」

ナックルズは頭を押さえながら身を起こす。

「なんで、ずぶ濡れなんだよ、お前」

シャドウは、ほんの少しだけ視線を逸らした。

「気分転換に、水浴びをしていただけだ。⋯⋯鍵の在り処に関する情報を、泉の中で見つけた」

「どうせまた、勝手に危ない事しやがったんだろ。礼をいう暇もねぇな」

ナックルズは文句を言いながらも、口元に僅かな笑みを浮かべた。

シャドウは、何も言わずにそっとナックルズの手を握る。触れ合った瞬間、二人の身体を柔らかな光が包んだ。

「な、なんだこれ」

「大いなる智慧、らしい」

シャドウは苦笑する。

泉の声が、ふたりの耳に同時に届いた。

――北へ、まっすぐ向かうといい。雪と氷の迷路の中心に、“鍵”は眠っている。

光はすぐに消えたが、その情報だけは、二人の中に鮮烈に残った。

ナックルズは、握った手に力を込める。

「行くか、北」

「ああ」

二人の視線が、同じ方向を見据えていた。