第九章 雪と氷の迷路
世界で最も凍てついた地――そこに、雪と氷の迷路があった。
吹き荒れる吹雪、氷の壁、凍った湖。
どこを見ても白一色の世界に、方角の感覚はすぐに狂ってしまう。
シャドウとナックルズは、大いなる智慧で示された“わずかな違和感”を頼りに、迷路の中を進んでいった。
やがて、風の音に紛れて、別の声が聞こえてきた。
――寒くないのか。
雪が問いかけてくるようだった。
「寒いぜ」
ナックルズは肩をすくめる。
「けど、もっと寒い場所を知ってるからな」
――もっと寒い場所?
「心の中だよ」
言いながら、ナックルズはちらりとシャドウを見る。
「大事なやつがいなくなって、どうしてか思い出せねえのに、胸の奥だけ妙にスースーしてる感じ。あれに比べりゃ、この程度の寒さ、なんてことねえ」
シャドウは目を細め、ほんのわずかに笑った。
――辛くないのか。
雪はしつこく問う。
「辛い」
シャドウが今度は答える。
「何度も、立ち止まりたくなる。君が記憶を取り戻した後のことを想像するたびに、怖くて仕方がない」
――それでも、進むのか。
「進むさ」
シャドウは迷いなく言う。
「怖いからこそ、進むんだ。立ち止まっていたら、怖さに飲み込まれてしまうから」
雪は、何も言わなくなった。
代わりに、氷が甘い声で囁き始める。
――こっちへおいで。温かいお茶を飲ませてあげる。
――ふかふかの布団で、一生眠っていなさい。
――友達も家族も、みんなこっちにいる。ここなら、何も怖くない。
幻のように、暖かな家や食卓の光景が、氷壁の中に映し出される。
ナックルズは、鼻で笑った。
「悪いが、俺の家は空の上にあるんでな。寒くても、風が強くても、そこが一番落ち着くんだ」
シャドウもまた、幻に目を向けることはなかった。
「僕の居場所は、どんなに居心地が悪く見えても――彼と肩を並べていられる場所だけだ」
氷は、誘惑をやめた。
代わりに、道の先の視界を少しだけ開く。
「⋯⋯居心地の悪そうな島で悪かったな」
ナックルズがすねたように口を尖らせた。シャドウは眉ひとず動かさず言った。
「ものの例えだ。僕にとっては、至上の楽園だった。君がずっと守ってきた、うつくしき楽園だ。記憶が戻れば、またきっと⋯⋯」
「あーあー、聞こえねぇ。寒さで耳がおかしくなったんだ」
照れ臭そうにナックルズがごまかした。シャドウは頬を緩ませ、気付かないふりをした。
やがて、二人は迷宮の中心に辿り着いた。
そこには、氷よりも冷え切った小さな泉があった。
水面は凍っておらず、澄んだ青色を湛えている。
「ここか」
ナックルズは泉の前に膝をついた。
「どうせまた、なんか代償を要求してくるんだろ」
「その時は、僕が払う」
シャドウがすぐに口を挟む。ナックルズは、即座に首を振った。
「順番だ。さっきの泉にはお前が飛び込んだ。じゃあ、ここは俺の番だろ」
そう言うとナックルズは、ためらいなく泉に手を入れた。
凍てつくような冷たさが、一瞬で腕を駆け上がる。
感覚がなくなり、骨まで冷えていく。それでも、引き抜かなかった。
「ふっ⋯⋯」
歯を食いしばりながら、ナックルズは腕を泉の底へ伸ばす。
やがて、指先が何か硬いものに触れた。
それは、小さな白い鍵だった。
「⋯⋯見つけたぜ」
ナックルズが鍵を握りしめた瞬間、泉の冷たさは嘘のように消えた。
代わりに、鍵そのものから柔らかな光が立ちのぼる。
ナックルズは立ち上がり、鍵を頭上に掲げた。
白い光が差し、目の前に巨大な扉が現れる。
扉の表面には、エキドゥナ族の紋章と、見慣れた祭壇の模様が刻まれていた。
シャドウは、ナックルズの隣に立った。
「大丈夫だ。一緒に行こう」
「当たり前だ。ここまで来て、置いていくとか言い出したら、ぶん殴るからな」
ナックルズは鍵を扉に差し込む。
重たい音を立てて、扉が開いた。
冷たい風と、どこか懐かしい匂いが、二人の頬を撫でる。
二人は、同時に扉の中へ足を踏み入れた。
第十章 森の棺
扉の先に広がっていたのは、深い緑の森だった。
しかし、セージと訪れた呪いの森とは違う。
木々は柔らかく揺れ、葉の隙間から差し込む光は、どこか懐かしい温度を帯びている。
「⋯⋯鍵を使って開かれたってことは⋯⋯ここが、“箱”の中か?」
シャドウが呟く。
ナックルズは周囲を見渡し、ふと立ち止まった。
「この匂い⋯⋯」
鼻をくすぐる土と草の匂い。幼いころ、どこかで嗅いだような、胸の奥を掻きむしる懐かしさ。
「知ってる気がする」
二人が森を進むと、やがて視界が開けてきた。
そこには、朽ちかけた遺跡が広がっていた。
石造りの柱に刻まれた文様。
崩れた神殿の階段。
風にさらされながらも、なお誇り高く立ち続けている建造物の残骸。
「エキドゥナ族の……遺跡だ」
ナックルズの声はかすれていた。
遺跡のあちこちに、赤い光がぽつりぽつりと浮かんでいる。
それは、炎ではない。
霊魂のような、柔らかく揺らめく光だった。
赤い霊魂たちは、二人の存在に気づくと、ゆっくりと近づいてくる。
“ようやく来たか”
その声は、不思議と懐かしかった。
“守護者の血を継ぐ者よ”
ナックルズは、無意識のうちに拳を握りしめる。
「⋯⋯俺は、ナックルズ・ザ・エキドゥナ。マスターエメラルドの守護者だ」
“知っている”
霊魂たちは揺れ動きながら、神殿の奥へと導いた。
二人が進んだ先には、ひとつの棺があった。
古びた石棺。その蓋には、エキドゥナ族の紋章と、マスターエメラルドの意匠が刻まれている。
ひときわ強い光を放つ霊魂が、棺の上に浮かび上がった。
“この森全体が、“記憶の箱”だ”
“お前の記憶も、エキドゥナ族の力も、この棺と共に眠っている”
“蓋を開ければ、失われたすべてが戻るだろう”
ナックルズは、何も言わずに立ち尽くした。
視界が滲んでいることに気づいて、初めて、自分が泣いていることを自覚した。
シャドウは、隣から静かに問いかける。
「なぜ泣いている?」
ナックルズは、とめどなく流れる涙を隠しもせずに言った。
「旅は終わりだろ。お前が俺の側にいる理由も、ここで終わりだと思ったら⋯⋯」
言葉が途切れる。声を出すと、何かが崩れてしまいそうだった。
それでも拳で目元を乱暴にぬぐい、ナックルズは続けた。
「記憶を取り戻したら、きっと俺はまた守護者として元に戻る。その時、俺は今の俺じゃなくて、お前を好きになるよりも前の俺に戻っちまうかもしれねぇ。そうしたら、お前はまた一人でどっかに行っちまうんじゃねえかって」
シャドウは、静かにナックルズの手に自分の手を重ねた。
その手は、少し震えていた。
けれど、目はまっすぐナックルズだけを見ている。
「終わりじゃない」
シャドウの声は、驚くほど柔らかかった。
「ここから始まるんだ」
「始まる?」
「記憶を取り戻した君と、もう一度共に歩む。僕の夢が、再び始まるんだ」
ナックルズは、目を見開いた。
「お前の夢⋯⋯?」
「君の記憶がなくなってからの旅は、正直、ずっと怖かった。君が、もう二度と僕を選ばない未来も、何度も想像した。それでも止まれなかったのは――」
シャドウは、かすかに笑った。
「君と、もう一度並んで歩きたかったからだ」
胸の奥で、何かが弾けた。
ナックルズは、信じられないような顔でシャドウを見つめる。
「そんな顔をされると、少し傷つくな」
シャドウは冗談めかして言いながらも、その瞳には真剣さしかなかった。
「⋯⋯シャドウ」
「記憶を取り戻した君が、僕をどう扱うかは、君の自由だ。枷だと思うなら、言ってくれ。僕はその時、笑って身を引く。それだけは変わらない」
ナックルズは息を飲む。
「でも、今は違う。今の君は、僕に側にいて欲しいと言ってくれた。その気持ちだけは、確かにここにある」
シャドウは、ナックルズの胸元にそっと手を当てる。
「その願いに応えたい。だから、終わりじゃなくて始まりだと、僕は信じたい」
沈黙が、二人の間に流れる。
やがて、ナックルズは大きく息を吸い込んだ。
「⋯⋯なあ、シャドウ」
「何だ」
「もしも記憶が戻っても、俺がお前と一緒にいたいって言ったら――その時は、また、約束してくれるか?」
シャドウは一瞬目を見開き、それからゆっくりと笑った。
「もちろん。何度でも、同じ約束をしよう」
ナックルズは、その笑顔を胸に刻み込んだ。
「⋯⋯よし」
涙を拭き、彼は棺の前に立つ。
「一緒に開けてくれ」
「喜んで」
二人は、並んで棺の蓋に手をかけた。
赤い霊魂たちが、静かに歌い始める。遠い昔の子守歌のような、柔らかな旋律だった。
ふたりが力を込めると、重たい蓋がゆっくりと動き始めた。
まばゆい光が、内側から溢れ出す。
視界が白で満たされ、身体が浮き上がるような感覚に包まれる。
――次に目を開けた時、二人はエンジェルアイランドの祭壇の前にいた。
マスターエメラルドが、静かに光を放っている。
周囲の空気も、風の匂いも、すべてが懐かしく、そして新しかった。
「⋯⋯戻ってきたのか」
ナックルズはゆっくりと立ち上がる。
頭の中に、洪水のように記憶が流れ込んでくる。
マスターエメラルドと共に過ごした日々。
エキドゥナ族の過去。
守護者としての責務。
そして――
星降る夜、隣で同じ方向を見ていた、黒いハリネズミの横顔。
初めて出会った時の無愛想な顔。
共に戦った時の揺るぎない瞳。
初めて島のフルーツを渡した時の、驚いた表情と、かすかに緩む頬。
シャドウと出会ってからの全ての出来事が、ひとつの記憶として繋がっていく。
「具合はどうだ?」
シャドウの声が、すぐ側から聞こえた。
ナックルズは振り返り、彼をまっすぐ見つめる。
「⋯⋯いつも通りだ」
笑ってそう言った瞬間、胸の奥にあった空洞が、ようやく埋まった気がした。
シャドウは何も言わず、ナックルズを抱き寄せた。
驚きは一瞬だけだった。すぐに、懐かしさがそれを上書きする。
「あー⋯⋯」
ナックルズは照れ隠しに冗談を言おうとした。
けれど、彼の肩に顔を埋めるシャドウが、静かに震えているのに気づき、その言葉を飲み込んだ。
代わりに、そっと彼の背をさする。
「⋯⋯悪かったな」
「何が」
「全部。お前の事、なんにも覚えてなくて、傷つけて、散々迷惑かけて」
シャドウは、彼の肩に額を押し当てたまま、小さく首を振った。
「君が悪いんじゃない。呪いが悪い。僕が勝手に、君のことを好きになって、勝手に悲しんでただけだ」
ナックルズの心臓が、大きく跳ねた。
「⋯⋯今の、もう一回言え」
「何を?」
「そこ。大事なとこ」
シャドウは、しばらく黙り――覚悟を決めたように、ナックルズを見上げた。
満天の星空の下で、彼ははっきりと口にする。
「君が、好きだ」
風が、一瞬止まったように感じた。
「記憶を失う前も、失ってからも、ずっと。だから、“僕を枷だと思うなら消える”なんてことを言ってしまった。それぐらいしか、君の自由のために出来ることがないと思っていた」
ナックルズは、何も言わなかった。
代わりに、そっとシャドウの頬に手を添える。
「俺の記憶が戻った今でも、それ言えるか?」
「言える」
迷いはなかった。
ナックルズは、ふっと笑った。
「じゃあ、俺もひとつ、思い出したことがある」
「何を?」
「俺も、お前が好きだ。星降る夜に、そう言ったはずだ」
シャドウの目が、驚きで見開かれる。
記憶がなくなるよりもずっと前。シャドウとナックルズが、星空を見上げながら、誓いあったあの夜。
「あの時言った事を、もう一回言っとく。――俺の隣にいてくれ。これからも」
シャドウは微笑んだ。
涙で滲んだ視界の中で、星がいっそう鮮やかに瞬いている。
「喜んで。君が望む限り、何度でも約束しよう」
それ以上、言葉はいらなかった。
二人は、満天の星空の下で、静かに抱き合ったまま、地平線が連れてくる夜明けを見守り続けた。
東の空が、ゆっくりと白み始める。
呪いの箱は、もう存在しない。
記憶も、力も、想いも――すべてが彼らの中に戻ってきた。
シャドウの旅は終わった。
しかし、二人の物語は、今まさに始まったばかりだった。
――星降る夜に交わした約束の、その続きとして。