甘々:シャドウの一目惚れ

ある年の春。シャドウは、セントラルシティにある中央工科大学に入学した。

中央工科大学は、特に科学・工学分野において世界で圧倒的な評価を受け、コンピューターサイエンスや物理学、数学などで最先端の研究をリードし続ける名門校だった。

シャドウは孤児で、とある政府の要人に養子として引き取られたが、要人は天涯孤独の身で、すぐに老衰でこの世を去った。シャドウの元には莫大な遺産と大きな屋敷だけが残されたが、優秀なシャドウは、たった一人で遺された資産を管理し、いち学生として学問に没頭し、この春、この大学の学生寮に入寮してきたのだった。

(あの屋敷は僕には広すぎる。元々僕のものでもない。学生寮の方が、世の中を学ぶにはいい場所かもしれない)

シャドウは手早く入寮の手続きを済ませ、大学内を散策し始めた。

構内は広く、早々に、新入生への部活動やサークルの勧誘が始まっている。

元々他人に興味などない。家族もいない。友人もいない。恋人の必要性も感じない。

何故自分が生きているのか。それすらわからない。

シャドウはただただ、学ぶためだけに生きてきた。

(この世の全てを知れば、いつかわかるのだろうか。僕の存在理由が⋯⋯)

サークルの勧誘係に何度か話しかけられたが、一切構わずに、眉をひそめて通り過ぎた。無駄に浮かれた表情で馴れ馴れしく話しかけてくる彼らを、なんとなく不愉快だと思った。

大学内にある雑木林を抜け、グラウンドが併設された小道を歩いていると、何かが転げ落ちてくるような音と共に、突然横から衝撃を受けた。

「うわっ⋯⋯」

誰かの短い叫び声が聞こえた。そのまま身体を吹き飛ばされ、小道の横の坂を転がり落ちた。

シャドウは受け身を取ろうとしたが、身体を何かに包まれ、動けず、ごろごろと転がり、何かに衝突し、ようやく止まった。

痛みに耐えようとして目をつぶっていたが、不思議と痛みはほとんどなかった。

目を開けると、自分を包んでいたものの正体がわかった。

誰かに抱きしめられている。

真っ赤な毛並みが視界に入った。しなやかで弾力のある赤い胸の中に、自分の頭がすっぽり入っている。

(なんだ⋯⋯この匂いは)

シャドウは完全に思考を停止させた。

夏草と甘い果実がまじったような匂い。

なつかしいような、ずっとこれが欲しかったような。

シャドウは突然泣きたくなって、ただただ息を吸い続けた。

(僕は、今、生きている⋯⋯⋯この世界で、これを感じるために)

何故だかわからないが、シャドウはそう確信し、赤い毛並みの胸の中に顔を思い切りうずめ、すうすうと息を吸い、夢中で匂いを嗅ぎつづけた。

その時、

「うう⋯⋯」

低い呻き声が頭の上から聞こえた。正気に戻ったシャドウは慌てて起き上がり、状況を確認した。

視界に入ったのは、赤い毛並みの筋肉質なハリモグラ。

その背後に大きな木。

横から吹っ飛んで来て、シャドウにぶつかり、そのままシャドウを抱えて転がり落ち、木に激突してしまったらしい。

シャドウは目を見張って、身体を硬直させた。思わず、口が勝手に言葉を紡いだ。

「⋯⋯⋯みつけた⋯⋯⋯」

シャドウは、赤いハリモグラの毛並みをゆっくりと撫でた。

撫でたのは自分なのに、なぜか自身の身体が痺れていく。

赤い毛並みを撫でるたび、自身の身体にびりびりと衝撃が走る。

止められない。

肩を撫で、腕を撫で、背中を撫で、腰を撫で⋯⋯心臓の音をばくばくと響かせながら、震えながら、そっと胸の上に手を置いた。

赤いハリモグラがぱちりと目を開け、飛び起きた。

「悪い!ぶつかっちまった⋯⋯怪我はないか?!痛むところは?!」

シャドウは、ビクッと肩を飛び上がらせ、身体を硬直させた。

とっさに言葉が出ない。

何か言おうとしたが、唇が震える。

(僕は今、彼に何を⋯⋯いや、何か言わねば。⋯⋯何を?)

「怪我は?!」

覗き込まれ、とっさに半身をのけぞらせた。

「あ⋯⋯う⋯⋯」

何も言えずに、ただ首を横に振った。

その時、坂の上の方から怒鳴り声が聞こえた。

「何やってんだ、間抜け!さっさと戻ってこい」

赤いハリモグラが、ハッとして一瞬怯えたような表情をした。

そしてすぐに固い表情に戻り、立ち上がり、シャドウに言った。

「こっちの不注意だ、悪かった。じゃあな」

シャドウは、立ち上がる瞬間に、ハリモグラの顔が一瞬苦痛に歪んだのを見逃さなかった。

すれ違う瞬間、膝や腕に、あちこち痣ができているのも見えた。

「⋯⋯⋯!」

手を伸ばしかけたが、かける言葉がみつからず、伸ばした手を引っ込めた。

そのまま赤いハリモグラは、怒鳴り声がした坂の上に向かって走って去っていった。

遺されたシャドウは、座り込んだまま、ようやく小さな声でつぶやいた。

「き⋯⋯⋯君の⋯⋯名前を⋯⋯」


結局シャドウは、赤いハリモグラがどこの誰なのか特定できずに、一人で寮に戻るしかなかった。

坂の上まで登って、彼を探してもみた。

そこには広いグラウンドがあり、たくさんの運動部の部員たちがあちこちで動き回っていたが、赤い毛並みは一人も見当たらなかった。

暗くなるまでフラフラと歩きまわり、赤い毛並みを探し続けたが、寮長から、

「歓迎会があるから、夜には戻ってきてくれ」

と言われていたのを思い出し、仕方なく寮に戻り、自室の勉強机にじっと座りこんでいた。

⋯⋯夕食。歓迎会。交流会。

その夜は、新しく入寮した新入生のための催しが開かれ、寮内は明るく賑やかだった。

シャドウは、いつもならこの明るさをうっとうしく思うはずだった。

(僕は孤独だ。あそこで笑っているあいつも、あそこではしゃいでいるあいつも、僕とは無関係の他人だ)

いつものシャドウなら、誰に話しかけられても、眉をひそめて、静かに距離を置くだけだった。

しかし、シャドウは今、それどころではなかった。周囲を見渡し、必死に赤い毛並みのハリモグラを探していた。

(雰囲気からして、同期生かもしれない。それなら、この寮にいるかも⋯⋯)

中央工科大学は、いくつもの学部・学科に分かれ、学生数も相当多い。

寮生も、新入生だけでかなりの数がいる。歓迎会に参加していない寮生もいるらしい。

広間から出て、廊下を見渡した。あちこちで学生が立ち話をしている。

階段を上がり、他のフロアや、談話室、洗濯室も確認をする。赤い毛並みは見つからない。

各階のトイレまで順番に探したところで、ようやくシャドウは正気に戻った。

(僕は気でもふれてしまったのか。何故たった一度会っただけの彼に、こんなに執着しているんだ)

突然横からぶつかって来ただけの、無礼な他人。

眉をひそめて、距離をとって終わりのはずの存在。

(でも⋯⋯彼は怪我をしていた。きっと、とっさに僕を庇ったせいだ)

シャドウは胸がうずうずした。

しかし理由がわからない。どうすればいいのかもわからない。

相談できる相手もいない。

シャドウは立ち尽くして、ため息をついた。

それから肩を落とし、一人ぼっちで自室に戻っていった。


数日後、休暇が明け、大学の授業が始まった。

シャドウは大講堂で地理学の講義を受けた後、昼の休憩をとるために、構内の小道を歩いていた。

小道を抜けると構内のカフェがある。そこで一休みしてから、午後の講義に参加しようと思い、足早に小道を歩いていった。

ふと、違和感を覚えて立ち止まった。

首を回して振り向く。

足早で来た道を戻る。

そして、脇に生えた低木をかきわけ、茂みの中を進み、細い幹の木の前で立ち止まった。

赤いハリモグラが、木の幹にもたれかかり、すやすやと寝息を立てていた。

シャドウは、心臓が止まりそうな気分になって、自身の胸を強く握りこんだ。

呼吸が荒くなる。赤い毛並みから目が離せない。足が震えて、その場にしゃがみこんだ。

「⋯⋯みつ⋯⋯けた」

シャドウは、這うようにして赤いハリモグラに近づいた。

顔をのぞきこむ。ハリモグラは熟睡しているのか、起きる気配がない。

シャドウは、ごくりと唾を飲み込んだ。

(とうとうみつけた。ずっと探していた。⋯⋯欲しい。⋯⋯僕がみつけたんだ。これは⋯⋯⋯僕のものだ)

シャドウは、震える手をのばし、ハリモグラの胸に手を置いた。

毛並みの奥に、しなやかな胸の弾力を感じる。指に力を込めた。

「ん⋯⋯⋯」

ハリモグラが呻いた。

シャドウは、飛び上がり、後ずさった。

心臓が爆音を立ててはねる。

(僕は、何を⋯⋯⋯?!)

シャドウは、混乱と恐怖で固まった。

自分で自分がわからない。

一度会っただけの赤いハリモグラに執着し、勝手に探しまわり、みつけた途端に勝手に身体を触る。

正気の沙汰とは思えない。

それでも、シャドウは抑えられなかった。

(名前、せめて、名前を⋯⋯⋯)

ハリモグラの背中の後ろに、彼の荷物が見えた。

本やノートをいれる薄型のドキュメントケース。

(本やノートに、名前を記入しているはずだ。名前を見るだけだ、名前を⋯⋯)

シャドウは、身体を震わせながら、ケースの蓋に手を伸ばした。その時、

「ナックルズ!ここにいたのかよ」

よく通る明るい声が背後から聞こえた。

瞬間、シャドウは全身をゴムのように弾かせ、その場から全力で駆け出し、声の聞こえた反対側に逃げ去った。

声の主がナックルズの元にたどり着いた頃には、シャドウは完全に逃げ去っていた。

「ナックルズ、起きてくれよ。次の講義、一緒に受けようぜ」

「⋯⋯シルバー。お前、さっきここにいたか?」

シルバーと呼ばれた銀色の毛並みのハリネズミが、赤いハリモグラを揺り起こした。

赤いハリモグラは、寝ぼけ顔で左右を見渡す。

「今来たばっかりだぜ。誰かここにいたのか?」

「気のせいか⋯⋯ハァ」

ナックルズと呼ばれた赤いハリモグラはため息をついて、荷物を抱え、立ち上がった。シルバーがナックルズの顔を覗き込んだ。

「なんだよ、ため息なんかついちゃって」

「誰かが側にいて、なつかしいなぁって思ったんだけどな。夢かよ⋯⋯」

シルバーはなつっこい笑顔で明るく返した。

「ふーん。いい夢だな!大丈夫、きっとそれ、正夢だぜ!」

「雑にポジティブな事言ってんじゃねぇよ⋯⋯。行こうぜ」

ナックルズの元から逃げたシャドウは、構内の雑木林の奥で、倒れこみ、大きな木の根元に丸くなってかがみこんだ。

「ハァ⋯⋯うっ⋯⋯う⋯⋯⋯」

震えながら、顔を両手でぐしゃぐしゃに潰した。

両目から涙があふれて止まらない。胸が苦しい。

シャドウは、今すぐ消えてなくなってしまいたかった。

「馬鹿な⋯⋯。僕は何を⋯⋯⋯わ、わからない。⋯⋯何がしたい、一体⋯⋯」

しばらくうずくまって苦しんでいたが、先程背後から聞こえた声を思い出した。

「ナックルズ⋯⋯」

涙をぬぐい、上体を起こし、なんとか呼吸を整えた。

(⋯⋯ナックルズ。名前がわかった。彼の名は、ナックルズ)

名前がわかったという事実だけが、震えるほどに嬉しかった。

噛み締めるようにその名を胸の内で繰り返しながら、シャドウは暗く茂る雑木林を抜け、明るい小道を歩き、次の講義を受けるため、大学本棟へ向かって歩いていった。

翌日。

シャドウは、午前中に講義が全て終わり、帰り支度をしている時、唐突に後ろから話しかけられた。

「シャドウ!もしかしてお前、シャドウか?!」

振り向くと、高校時代の顔見知り──ソニックが、驚いた顔でこっちに走り寄ってきた。

高校時代の、バスケ部のライバル。

シャドウの高校と、ソニックの高校は、共にバスケ部の強豪校で、二人はバスケ部のエースだった。大会に出場するたびに何度も激突してきた、因縁の相手。

「ハ⋯⋯君もこの大学か。うっとうしい顔に会ってしまった」

シャドウは半目でソニックをにらみつけた。

ソニックは構わずに笑い飛ばし、馴れ馴れしくシャドウの肩に手を置いていった。

「嬉しそうで何よりだぜ、相棒!」

「何が相棒だ、図々しい」

シャドウは、眉をひそめて乱暴にソニックの腕をはらった。

シャドウはソニックと特別仲がいいわけではなかった。実際、ソニックの進学先が自分と同じで、この大学に入学していたとは知らなかった。

ソニックは誰にでも軽口をたたく。因縁のライバルのはずのシャドウに対しても、いつも妙に馴れ馴れしかった。

呆れた顔で帰り支度を再開するシャドウに構わず、ソニックは上機嫌で目の前のカフェを指さした。

「よし、じゃあランチはあのカフェだな!他にメンバーいるけど、別にいいだろ」

「なにが、よし、だ。僕はもう帰る⋯⋯」

「帰らせねぇよ!せっかくのハッピーキャンパスライフだ、ランチくらいは付き合えって」

強引に腕を引っ張られ、構内にあるカフェのテラス席に座らせられた。

シャドウは眉をしかめ、ソニックをにらみつけたが、瞬間、目を見張り、身体を凍り付かせた。

「おうソニック、テラス席にいたのかよ」

「ソニック、久しぶり!天気もいいし、最高の席だな。ゆっくりしようぜ!」

ナックルズとシルバーが、シャドウの座った四人掛けのテラス席に近づいてきた。

シャドウの心臓が跳ね上がる。ばくんばくんと、爆音が身体中に響く。

(⋯⋯ナックルズ⋯⋯何故⋯⋯?!ソニックと知り合いだったのか。⋯⋯逃げるべきか、いや、でも⋯⋯)

ソニックが笑いながら二人に言った。

「俺の高校時代のダチも一緒だけど、いいよな?」

ナックルズが、おう、と言いながら、シャドウの隣りにどっかと腰かけた。

(ナックルズが、僕の、僕の隣りに⋯⋯⋯ナックルズが、僕の⋯⋯⋯)

シャドウは目を見張って、震えながらうつむき、両手を膝の上で握りしめた。

空は晴天。

シャドウの心は、まるで天国と地獄の境目のように希望と絶望が渦を巻き、轟音を立てながらシャドウの理性を飲み込んで言った。