第4話「愛と平穏 」

世界政府直属のエージェントが活動拠点として使っている、巨大な地下施設。内部の灯りは、昼夜の感覚を奪うように、均一で冷たかった。

白とグレーで統一された無機質な廊下を、シャドウは無言で歩いていた。

聞こえるのは、空調の低い唸りと、遠くで機械が動く音だけ。それでも、シャドウの足取りは以前よりいくぶん軽かった。

――その変化に、シャドウ自身はまだ慣れていなかった。

任務終わりの身体を解そうと、片腕を軽く回しなが曲がり角をひとつ抜けたところで、ヒールの音が近づいてきた。

「――あら。久しぶりじゃない」

軽やかな声が、灰色の空気を易々と塗り替える。

胸元を大胆にはだけたタイトなスーツに身をつつみ、片手に端末を持ったルージュが、いつもの余裕の笑みを浮かべて立っていた。

「ルージュ」

シャドウは立ち止まり、わずかに顎を上げて彼女を見る。

「調子はどうなの?」

淡々とした問いかけの中に、ほんの少しの心配が混ざっているのを、シャドウは知っていた。

「君と似たような感じだ」

そう答える自分の声が、思ったより柔らかくて、内心で少し驚く。ルージュは一瞬目を瞬き、それから唇の端を持ち上げた。

「そう。なら安心ね」

軽くウインクを一つ投げて、すれ違う。そのままヒールの音が遠ざかっていく――はずだった。

数歩進んだところで、その音がぴたりと止まる。

「⋯⋯ねぇ、シャドウ」

背後から声にシャドウは足を止め、振り返った。

「ずいぶん余裕のある態度ね。何か、心境の変化でもあったんじゃないの?」

彼女のエメラルド色の瞳は、冗談半分、探るような光半分を宿していた。

(心境の変化⋯⋯か)

シャドウは一瞬だけ目を伏せた。

ルージュと最後に会ったのは、ナックルズと色々な事が起きる前――自分の中のあらゆる感情に、名前どころか輪郭さえ与えていなかった頃だった。

あの頃の自分を思い返す。

何を信じるでもなく、誰を求めるでもなく、命令と任務だけが、かろうじて自分をこの世界につなぎ止めていた。

無機質な廊下が、妙に冷たく思えた。背中のあたりに、うすら寒さが走る。

(あの頃に比べれば⋯⋯今の僕は、確かに随分と違う場所に立っているのかもしれない)

頭に浮かぶのは、はるか雲の上の浮島。大きなエメラルドの前で腕を組む赤いハリモグラの、堂々とした立ち姿。

思い出すたび、胸の奥のどこかが、かすかに熱を帯びる。

(⋯⋯だが)

それは、目の前にいる彼女には、無関係なはずの事。シャドウは表情を整えると、肩をすくめてみせた。

「いろんなトラブルに巻き込まれ続ければ、神経も麻痺してこうなるんだ。
君もそうだろう」

「あら。私は最初からこうよ?」

ルージュは笑い、顎に指を当てて一瞬だけ考え込むような顔をした。
だが、それ以上は踏み込まず、軽く手を振る。

「ま、いいわ。深追いはしないでおく。今はね」

それだけ言って、今度こそ本当に歩きだした。

彼女の背中が角の向こうに消える。シャドウはその場にしばらく立ち尽くし、自分の胸の鼓動が落ち着くのを待った。

(余裕がある、か。⋯⋯そう見えるのなら、そうなのだろう)

以前の自分を思えば、確かに変わった。その変化の中心にいるのが誰なのかを、シャドウはもうよく知っていた。

だがその名と、その名に対する想いは、まだ誰の前でも口にするつもりはなった。


次の任務までの空き時間。シャドウは地下二階のリフレッシュルームにいた。

白い壁に、安っぽいソファ。隅には自動販売機と、小さな簡易キッチン。味気ない部屋だが、任務の合間に頭を整理するには丁度いい。

紙コップに注いだ水をひと口だけ飲み、シャドウはテーブルの上に視線を落とした。

(エキドゥナ族の歴史⋯⋯マスターエメラルド⋯⋯それから――彼の使命)

どれも、頭の中で勝手に結びついてしまう。ナックルズが守る島。ナックルズの想い。もっと知りたい。

傍らに立つなら、せめてその重さが如何程のものなのかはわかっていたい。

そんなことをぼんやり考えていたとき――ヒールの音と、甘い香水の匂いが部屋に流れ込んできた。

「お邪魔していい?」

ルージュだった。

両手にはホットコーヒーのカップが二つ。返事を待つ前に、手にしたカップの一つをシャドウの前に置いた。

「やっぱり、当ててみようかしら」

「⋯⋯何をだ」

カップの縁から立ちのぼる香りに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。シャドウがそう問うと、ルージュは椅子に腰を下ろし、足を組んだ。

深く座らず、あえて浅く腰掛ける。綺麗な脚線がより長く見える座り方を、彼女はよく知っている。

「気の合う友達ができた。あるいは⋯⋯恋人?」

シャドウの指が、カップの上でぴたりと止まった。

目を上げる。ルージュは楽しそうに彼の顔を覗き込んでいる。

「当たりね」

彼女は自分のカップを持ち上げ、唇を寄せた。赤く塗られた口紅が、紙コップの縁に薄く跡を残す。

「このコーヒーは餞別。ようこそ、“愛と平穏”の世界へ」

「愛と⋯⋯平穏、か」

シャドウは小さく笑った。ごまかしではなく、ほとんど本音に近い苦笑いだった。

「愛というのは、平たく言ってしまえばまぁそうなのかもしれないが。
平穏というのはどうだろうな」

「へぇ?」

ルージュは肘をテーブルにつき、頬杖をつく。興味深そうにシャドウを眺めている。

「守りたいものが心にあるなら、相応の覚悟が要る。それは、平穏とはほど遠い」

言葉を選びながら、シャドウは続けた。

「目の前の全てに心を閉じていられた頃のほうが、きっと楽だった。だが⋯⋯今さら、あの頃に戻りたいとは、僕は思わない」

シャドウは既に知ってしまった。

誰かの無事に胸を撫で下ろし、誰かの苦しみに息を詰める感覚を。

ルージュは、何かを想像するように目を細めた。

「それを守るのは、貴方にとって、そんなに困難な事なのかしら?」

「困難だろうな」

シャドウはあっさりと認める。カップの縁を指でなぞり、目を伏せた。

「それでも、必ず成し遂げてみせる。僕はそう決めている」

「⋯⋯でも?」

促すような言葉に、わずかに口元を歪める。

「⋯⋯だが、彼が本当にそれを望んでいるかはわからない。余計なお世話なのかもしれない。僕はむしろ、彼の周囲の平穏を乱す厄介者なのかも、と思うことがある」

「⋯⋯彼?」

その一言に、ルージュの瞳がかすかに揺れた。

静かに息を吸い、吐き、彼女はシャドウを真正面から見つめる。

「貴方の抱えているそれは、友情かしら。それとも、もっと別の?」

問いは柔らかかった。追及ではなく、きっと確認。

シャドウは、ほんの少しだけ肩をすくめた。

「どうだろうな。この気持ちに、どう名を付けるのがいいだろうか」

ルージュは小さく笑った。さっきまでの茶化すような笑顔とは少し違う、
どこか優しい笑みだった。

「名がまだないなら、それでもいいじゃない。大事に温めていけばいいのよ」

「⋯⋯そういうものか」

「そういうものよ」

彼女は自分のカップを飲み干し、立ち上がる。

「そろそろもう行くわね。次のブリーフィングがあるの」

立ち上がりかけたそのとき――ふいに小さな声を上げた。

「そうだ。赤いハリモグラのやつを閉じ込めっぱなしだったわ」

その言葉は、シャドウの思考を一瞬で吹き飛ばすのに十分だった。


「っ――!!」

口元に運んだコーヒーが、盛大に逆流した。

「ちょ、ちょっと!?」

ルージュが飛び上がる。シャドウは咳き込みながら、目を見開いた。

「ナックルズを――捕縛したのか?」

誤魔化しも婉曲も忘れ、口から出たのは剥き出しの言葉だった。

「何を企んでる。彼を妙な事に巻き込む気なら――僕が許さないぞ!」

ルージュは目を丸くし、慌てて両手を振った。

「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ!大丈夫よ、誰も捕縛なんてしてないわよ!」

シャドウの肩は、激しく上下していた。

ルージュとナックルズ。二人の間には、マスターエメラルドを巡る長い因縁がある。最近は和解し、宝石泥棒と守護者という枠を超えて、奇妙に居心地のいい友情を築いている――と、シャドウは思っていた。

(すっかり和解したと思って、油断していた)

こうして任務に追われているあいだに、また何か面倒に巻き込まれていたとしたら――

「ええとね⋯⋯」

ルージュは困ったように眉を寄せ、説明を試みる。

「貴方も当事者のはずだけど、レジーナとの一件について、彼に確認したい事があったから、この施設へ招待して、応接室で待ちぼうけを食らわせてるだけよ」

「応接室⋯⋯?」

「紅茶とクッキーを出して、柔らかいソファーに座らせてるの。
閉じ込めてはいるけど、苦しませてはいないつもりよ」

軽口だったのだろう。だが、シャドウには一ミリも笑えなかった。

「⋯⋯⋯⋯」

「ただ、ちょうど私が他の任務とダブルブッキングしちゃって。
このあとまたすぐそっちに顔出さなきゃならないのよねぇ」

彼女が言葉を終えるのと、シャドウの頭の中で何かがプツンと切れる音がするのは、ほぼ同時だった。

「つまり⋯⋯」

ルージュが、じっとシャドウの顔を覗き込む。知性を携えたエメラルドの瞳が、シャドウの動揺を一つも見逃さない。

「貴方は、ナックルズの騎士様、って事なのね?」

痛いところを、ぐさりと突かれた。シャドウの思考は、一瞬真っ白になる。

(騎士⋯⋯? 僕が?)

自分の心の中心にある存在が誰なのか、はっきり名前にして語ってこなかったのは、冷静でいるためだった。

“彼”とだけぼかしていれば、自分をごまかしやすい。

しかし今、赤いハリモグラの名前が、はっきりとルージュの口から出た。

誤魔化しようがない。

顔に熱が集まるのが、自分でも分かった。耳の先まで、じんじんと火照っていく。

(ばれた。⋯⋯完全に、ばれた)

次の瞬間には、逆方向から血の気が引いた。

(ルージュにからかわれる。いや、それより――ナックルズに迷惑がかかるんじゃないか?)

ルージュにこの事が知られ、ルージュがナックルズに、この事を告げたり、最悪、からかったりした場合、ナックルズは一体どんな気持ちになるか。

想いだけなら、胸の中でいくらでも増幅して構わない。だが、ナックルズの心を乱すような真似だけはしたくない。

シャドウの背筋に、冷たいものが走る。今度は背中じゅうに鳥肌が立った。

ルージュは、そんな彼の動揺を見て、小さく息を吐き、穏やかな声で、もう一度言った。

「ナックルズには、紅茶とクッキーを出して、やわらかいソファに座ってもらってるのよ」

落ち着かせるような口調だった。

「追加でケーキでもお出しした方がいいかしら?⋯⋯騎士様」

最後の一語だけ、少し楽しそうに。シャドウははっとして顔を上げる。ルージュは、なんでもないような顔で続けた。

「大丈夫よ、って言ったでしょ」

その“だいじょうぶ”には、色々な意味が含まれているような気がした。

からかう事はたまにある。けれど、友人を傷つけるような真似はしない――という、彼女なりの流儀。

シャドウは少しだけうつむくと、小さな声で言った。

「⋯⋯彼はフルーツが好きだ」

「フルーツ?」

「甘い食べ物は、そこそこ好む。砂糖の多い味の強いものよりは、柔らかい甘さのものがいい」

妙に具体的な情報が口をついて出てしまい、自分で自分に呆れそうになる。ルージュは一拍の後、ふっと笑った。

「OK。美味しいフルーツの焼き菓子を持っていくわ」

「⋯⋯頼む」

それだけしか言えない。ルージュは踵を返し、扉の前で振り向いた。

「シャドウ」

「何だ」

「さっき言った“愛と平穏”の話。貴方の愛は、きっと彼に届くわ。どんな形であれね」

返事を待たず、彼女は部屋を後にした。扉が閉まり、静寂が戻る。シャドウは、椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。


「⋯⋯ナックルズの騎士か。この僕が」

誰もいない部屋で、自嘲めいた笑いが漏れる。

ルージュとは、長い付き合いだった。宝石ばかり追いかけているように見えて、意外なほど筋を通したがるところがある。

(ナックルズを、彼女がおかしな形で弄ぶことはない)

むしろ――柔らかいソファに座り、紅茶とクッキーと、そこへフルーツの焼き菓子まで出されて。

無機質で彼には不似合いな地下施設でも、少しだけ居心地のいい時間を過ごしてくれているなら、それでいい。

とはいえ、自分の失態は失態として、肩に重くのしかかる。

ナックルズの名を、声に出して語ってしまった。ルージュという“第三者”に、自分の想いの輪郭を知られてしまった。

それは、もう元には戻らない。

シャドウは立ち上がり、カップの残りを一気に飲み干した。冷めかけたコーヒーが喉を落ちる。

「愛と平穏、か」

ルージュの言葉が、脳裏によみがえる。

――ようこそ、“愛と平穏”の世界へ。

(僕の愛、か)

誰かを思って胸が温かくなる感覚。その誰かのためなら、傷つくのも、汚れるのも厭わないと思えてしまう危うさ。

(誰かを守りたいという気持ちを愛と呼ぶなら、ナックルズは間違いなく、僕の中にそれを生み出してくれた)

そして――平穏。

(僕は、彼の平穏を乱してばかりかもしれない)

究極生命として、エージェントとして、自分はいつも戦いと混乱の陰鬱な影をまとっている。ナックルズに近づけば近づく程、ナックルズをあらゆる危険に巻き込む事になる。

レジーナから救出した後のあの日――祭壇の柱の陰で、一人悪夢にうなされていた彼の寝顔を思い出す。

泣きながら、うわ言で仲間の名を呼んでいた孤独な守護者。

それでも彼は立ち上がり、マスターエメラルドの前で腕を組み、変わらず笑顔で自分を出迎えてくれる。

(君は弱くなんかない。何度でも僕を許し、受け止め⋯⋯あの島で待っていてくれる)

(ならば――僕は彼に、何を返せるだろう)

ナックルズが望むものはきっと、マスターエメラルドと仲間たちの、静かな日常。雲の上の島で、気まぐれな風とだけ会話していられるような、静かで穏やかな、守護者としての時間。

(僕は君の心に、“平穏”を返したい)

たとえそれが、自分自身から最も遠い場所にある言葉だとしても。地下施設の無機質な光の中で、シャドウはそっと目を閉じた。

エンジェルアイランドに吹く、透き通った風を思い出す。樹々のざわめきと、祭壇の静けさ。そこに立つ、赤い背中。

深く息を吸い込む。そして、扉の方へと歩き出した。

「⋯⋯また会いに行く。君の島へ、君の平穏を守るために」

誰に聞かせるでもない独り言が、静かな地下施設の空気に溶けていった。