世界政府直属のエージェントが活動拠点として使っている、巨大な地下施設。内部の灯りは、昼夜の感覚を奪うように、均一で冷たかった。
白とグレーで統一された無機質な廊下を、シャドウは無言で歩いていた。
聞こえるのは、空調の低い唸りと、遠くで機械が動く音だけ。それでも、シャドウの足取りは以前よりいくぶん軽かった。
――その変化に、シャドウ自身はまだ慣れていなかった。
任務終わりの身体を解そうと、片腕を軽く回しなが曲がり角をひとつ抜けたところで、ヒールの音が近づいてきた。
「――あら。久しぶりじゃない」
軽やかな声が、灰色の空気を易々と塗り替える。
胸元を大胆にはだけたタイトなスーツに身をつつみ、片手に端末を持ったルージュが、いつもの余裕の笑みを浮かべて立っていた。
「ルージュ」
シャドウは立ち止まり、わずかに顎を上げて彼女を見る。
「調子はどうなの?」
淡々とした問いかけの中に、ほんの少しの心配が混ざっているのを、シャドウは知っていた。
「君と似たような感じだ」
そう答える自分の声が、思ったより柔らかくて、内心で少し驚く。ルージュは一瞬目を瞬き、それから唇の端を持ち上げた。
「そう。なら安心ね」
軽くウインクを一つ投げて、すれ違う。そのままヒールの音が遠ざかっていく――はずだった。
数歩進んだところで、その音がぴたりと止まる。
「⋯⋯ねぇ、シャドウ」
背後から声にシャドウは足を止め、振り返った。
「ずいぶん余裕のある態度ね。何か、心境の変化でもあったんじゃないの?」
彼女のエメラルド色の瞳は、冗談半分、探るような光半分を宿していた。
(心境の変化⋯⋯か)
シャドウは一瞬だけ目を伏せた。
ルージュと最後に会ったのは、ナックルズと色々な事が起きる前――自分の中のあらゆる感情に、名前どころか輪郭さえ与えていなかった頃だった。
あの頃の自分を思い返す。
何を信じるでもなく、誰を求めるでもなく、命令と任務だけが、かろうじて自分をこの世界につなぎ止めていた。
無機質な廊下が、妙に冷たく思えた。背中のあたりに、うすら寒さが走る。
(あの頃に比べれば⋯⋯今の僕は、確かに随分と違う場所に立っているのかもしれない)
頭に浮かぶのは、はるか雲の上の浮島。大きなエメラルドの前で腕を組む赤いハリモグラの、堂々とした立ち姿。
思い出すたび、胸の奥のどこかが、かすかに熱を帯びる。
(⋯⋯だが)
それは、目の前にいる彼女には、無関係なはずの事。シャドウは表情を整えると、肩をすくめてみせた。
「いろんなトラブルに巻き込まれ続ければ、神経も麻痺してこうなるんだ。
君もそうだろう」
「あら。私は最初からこうよ?」
ルージュは笑い、顎に指を当てて一瞬だけ考え込むような顔をした。
だが、それ以上は踏み込まず、軽く手を振る。
「ま、いいわ。深追いはしないでおく。今はね」
それだけ言って、今度こそ本当に歩きだした。
彼女の背中が角の向こうに消える。シャドウはその場にしばらく立ち尽くし、自分の胸の鼓動が落ち着くのを待った。
(余裕がある、か。⋯⋯そう見えるのなら、そうなのだろう)
以前の自分を思えば、確かに変わった。その変化の中心にいるのが誰なのかを、シャドウはもうよく知っていた。
だがその名と、その名に対する想いは、まだ誰の前でも口にするつもりはなった。
次の任務までの空き時間。シャドウは地下二階のリフレッシュルームにいた。
白い壁に、安っぽいソファ。隅には自動販売機と、小さな簡易キッチン。味気ない部屋だが、任務の合間に頭を整理するには丁度いい。
紙コップに注いだ水をひと口だけ飲み、シャドウはテーブルの上に視線を落とした。
(エキドゥナ族の歴史⋯⋯マスターエメラルド⋯⋯それから――彼の使命)
どれも、頭の中で勝手に結びついてしまう。ナックルズが守る島。ナックルズの想い。もっと知りたい。
傍らに立つなら、せめてその重さが如何程のものなのかはわかっていたい。
そんなことをぼんやり考えていたとき――ヒールの音と、甘い香水の匂いが部屋に流れ込んできた。
「お邪魔していい?」
ルージュだった。
両手にはホットコーヒーのカップが二つ。返事を待つ前に、手にしたカップの一つをシャドウの前に置いた。
「やっぱり、当ててみようかしら」
「⋯⋯何をだ」
カップの縁から立ちのぼる香りに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。シャドウがそう問うと、ルージュは椅子に腰を下ろし、足を組んだ。
深く座らず、あえて浅く腰掛ける。綺麗な脚線がより長く見える座り方を、彼女はよく知っている。
「気の合う友達ができた。あるいは⋯⋯恋人?」
シャドウの指が、カップの上でぴたりと止まった。
目を上げる。ルージュは楽しそうに彼の顔を覗き込んでいる。
「当たりね」
彼女は自分のカップを持ち上げ、唇を寄せた。赤く塗られた口紅が、紙コップの縁に薄く跡を残す。
「このコーヒーは餞別。ようこそ、“愛と平穏”の世界へ」
「愛と⋯⋯平穏、か」
シャドウは小さく笑った。ごまかしではなく、ほとんど本音に近い苦笑いだった。
「愛というのは、平たく言ってしまえばまぁそうなのかもしれないが。
平穏というのはどうだろうな」
「へぇ?」
ルージュは肘をテーブルにつき、頬杖をつく。興味深そうにシャドウを眺めている。
「守りたいものが心にあるなら、相応の覚悟が要る。それは、平穏とはほど遠い」
言葉を選びながら、シャドウは続けた。
「目の前の全てに心を閉じていられた頃のほうが、きっと楽だった。だが⋯⋯今さら、あの頃に戻りたいとは、僕は思わない」
シャドウは既に知ってしまった。
誰かの無事に胸を撫で下ろし、誰かの苦しみに息を詰める感覚を。
ルージュは、何かを想像するように目を細めた。
「それを守るのは、貴方にとって、そんなに困難な事なのかしら?」
「困難だろうな」
シャドウはあっさりと認める。カップの縁を指でなぞり、目を伏せた。
「それでも、必ず成し遂げてみせる。僕はそう決めている」
「⋯⋯でも?」
促すような言葉に、わずかに口元を歪める。
「⋯⋯だが、彼が本当にそれを望んでいるかはわからない。余計なお世話なのかもしれない。僕はむしろ、彼の周囲の平穏を乱す厄介者なのかも、と思うことがある」
「⋯⋯彼?」
その一言に、ルージュの瞳がかすかに揺れた。
静かに息を吸い、吐き、彼女はシャドウを真正面から見つめる。
「貴方の抱えているそれは、友情かしら。それとも、もっと別の?」
問いは柔らかかった。追及ではなく、きっと確認。
シャドウは、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「どうだろうな。この気持ちに、どう名を付けるのがいいだろうか」
ルージュは小さく笑った。さっきまでの茶化すような笑顔とは少し違う、
どこか優しい笑みだった。
「名がまだないなら、それでもいいじゃない。大事に温めていけばいいのよ」
「⋯⋯そういうものか」
「そういうものよ」
彼女は自分のカップを飲み干し、立ち上がる。
「そろそろもう行くわね。次のブリーフィングがあるの」
立ち上がりかけたそのとき――ふいに小さな声を上げた。
「そうだ。赤いハリモグラのやつを閉じ込めっぱなしだったわ」
その言葉は、シャドウの思考を一瞬で吹き飛ばすのに十分だった。
「っ――!!」
口元に運んだコーヒーが、盛大に逆流した。
「ちょ、ちょっと!?」
ルージュが飛び上がる。シャドウは咳き込みながら、目を見開いた。
「ナックルズを――捕縛したのか?」
誤魔化しも婉曲も忘れ、口から出たのは剥き出しの言葉だった。
「何を企んでる。彼を妙な事に巻き込む気なら――僕が許さないぞ!」
ルージュは目を丸くし、慌てて両手を振った。
「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ!大丈夫よ、誰も捕縛なんてしてないわよ!」
シャドウの肩は、激しく上下していた。
ルージュとナックルズ。二人の間には、マスターエメラルドを巡る長い因縁がある。最近は和解し、宝石泥棒と守護者という枠を超えて、奇妙に居心地のいい友情を築いている――と、シャドウは思っていた。
(すっかり和解したと思って、油断していた)
こうして任務に追われているあいだに、また何か面倒に巻き込まれていたとしたら――
「ええとね⋯⋯」
ルージュは困ったように眉を寄せ、説明を試みる。
「貴方も当事者のはずだけど、レジーナとの一件について、彼に確認したい事があったから、この施設へ招待して、応接室で待ちぼうけを食らわせてるだけよ」
「応接室⋯⋯?」
「紅茶とクッキーを出して、柔らかいソファーに座らせてるの。
閉じ込めてはいるけど、苦しませてはいないつもりよ」
軽口だったのだろう。だが、シャドウには一ミリも笑えなかった。
「⋯⋯⋯⋯」
「ただ、ちょうど私が他の任務とダブルブッキングしちゃって。
このあとまたすぐそっちに顔出さなきゃならないのよねぇ」
彼女が言葉を終えるのと、シャドウの頭の中で何かがプツンと切れる音がするのは、ほぼ同時だった。
「つまり⋯⋯」
ルージュが、じっとシャドウの顔を覗き込む。知性を携えたエメラルドの瞳が、シャドウの動揺を一つも見逃さない。
「貴方は、ナックルズの騎士様、って事なのね?」
痛いところを、ぐさりと突かれた。シャドウの思考は、一瞬真っ白になる。
(騎士⋯⋯? 僕が?)
自分の心の中心にある存在が誰なのか、はっきり名前にして語ってこなかったのは、冷静でいるためだった。
“彼”とだけぼかしていれば、自分をごまかしやすい。
しかし今、赤いハリモグラの名前が、はっきりとルージュの口から出た。
誤魔化しようがない。
顔に熱が集まるのが、自分でも分かった。耳の先まで、じんじんと火照っていく。
(ばれた。⋯⋯完全に、ばれた)
次の瞬間には、逆方向から血の気が引いた。
(ルージュにからかわれる。いや、それより――ナックルズに迷惑がかかるんじゃないか?)
ルージュにこの事が知られ、ルージュがナックルズに、この事を告げたり、最悪、からかったりした場合、ナックルズは一体どんな気持ちになるか。
想いだけなら、胸の中でいくらでも増幅して構わない。だが、ナックルズの心を乱すような真似だけはしたくない。
シャドウの背筋に、冷たいものが走る。今度は背中じゅうに鳥肌が立った。
ルージュは、そんな彼の動揺を見て、小さく息を吐き、穏やかな声で、もう一度言った。
「ナックルズには、紅茶とクッキーを出して、やわらかいソファに座ってもらってるのよ」
落ち着かせるような口調だった。
「追加でケーキでもお出しした方がいいかしら?⋯⋯騎士様」
最後の一語だけ、少し楽しそうに。シャドウははっとして顔を上げる。ルージュは、なんでもないような顔で続けた。
「大丈夫よ、って言ったでしょ」
その“だいじょうぶ”には、色々な意味が含まれているような気がした。
からかう事はたまにある。けれど、友人を傷つけるような真似はしない――という、彼女なりの流儀。
シャドウは少しだけうつむくと、小さな声で言った。
「⋯⋯彼はフルーツが好きだ」
「フルーツ?」
「甘い食べ物は、そこそこ好む。砂糖の多い味の強いものよりは、柔らかい甘さのものがいい」
妙に具体的な情報が口をついて出てしまい、自分で自分に呆れそうになる。ルージュは一拍の後、ふっと笑った。
「OK。美味しいフルーツの焼き菓子を持っていくわ」
「⋯⋯頼む」
それだけしか言えない。ルージュは踵を返し、扉の前で振り向いた。
「シャドウ」
「何だ」
「さっき言った“愛と平穏”の話。貴方の愛は、きっと彼に届くわ。どんな形であれね」
返事を待たず、彼女は部屋を後にした。扉が閉まり、静寂が戻る。シャドウは、椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
「⋯⋯ナックルズの騎士か。この僕が」
誰もいない部屋で、自嘲めいた笑いが漏れる。
ルージュとは、長い付き合いだった。宝石ばかり追いかけているように見えて、意外なほど筋を通したがるところがある。
(ナックルズを、彼女がおかしな形で弄ぶことはない)
むしろ――柔らかいソファに座り、紅茶とクッキーと、そこへフルーツの焼き菓子まで出されて。
無機質で彼には不似合いな地下施設でも、少しだけ居心地のいい時間を過ごしてくれているなら、それでいい。
とはいえ、自分の失態は失態として、肩に重くのしかかる。
ナックルズの名を、声に出して語ってしまった。ルージュという“第三者”に、自分の想いの輪郭を知られてしまった。
それは、もう元には戻らない。
シャドウは立ち上がり、カップの残りを一気に飲み干した。冷めかけたコーヒーが喉を落ちる。
「愛と平穏、か」
ルージュの言葉が、脳裏によみがえる。
――ようこそ、“愛と平穏”の世界へ。
(僕の愛、か)
誰かを思って胸が温かくなる感覚。その誰かのためなら、傷つくのも、汚れるのも厭わないと思えてしまう危うさ。
(誰かを守りたいという気持ちを愛と呼ぶなら、ナックルズは間違いなく、僕の中にそれを生み出してくれた)
そして――平穏。
(僕は、彼の平穏を乱してばかりかもしれない)
究極生命として、エージェントとして、自分はいつも戦いと混乱の陰鬱な影をまとっている。ナックルズに近づけば近づく程、ナックルズをあらゆる危険に巻き込む事になる。
レジーナから救出した後のあの日――祭壇の柱の陰で、一人悪夢にうなされていた彼の寝顔を思い出す。
泣きながら、うわ言で仲間の名を呼んでいた孤独な守護者。
それでも彼は立ち上がり、マスターエメラルドの前で腕を組み、変わらず笑顔で自分を出迎えてくれる。
(君は弱くなんかない。何度でも僕を許し、受け止め⋯⋯あの島で待っていてくれる)
(ならば――僕は彼に、何を返せるだろう)
ナックルズが望むものはきっと、マスターエメラルドと仲間たちの、静かな日常。雲の上の島で、気まぐれな風とだけ会話していられるような、静かで穏やかな、守護者としての時間。
(僕は君の心に、“平穏”を返したい)
たとえそれが、自分自身から最も遠い場所にある言葉だとしても。地下施設の無機質な光の中で、シャドウはそっと目を閉じた。
エンジェルアイランドに吹く、透き通った風を思い出す。樹々のざわめきと、祭壇の静けさ。そこに立つ、赤い背中。
深く息を吸い込む。そして、扉の方へと歩き出した。
「⋯⋯また会いに行く。君の島へ、君の平穏を守るために」
誰に聞かせるでもない独り言が、静かな地下施設の空気に溶けていった。