第5話「マウントコルにて 」

ドーム状に盛り上がった、高くそびえる雪山――マウントコル。
雪に覆われた白い斜面の下には、ある企業が秘密裏に建設した、生態研究用の地下施設が隠されている。

そしてそこには、ナックルズを攫った半身機械の女──レジーナの残党が潜んでいる可能性がある。

そして、エキドゥナ族のクローン生成に関するデータが、まだ残っているかもしれない。

その情報を、シャドウは極秘裏に受け取ったのは、攫われたナックルズをレジーナの要塞都市から救出して、ひと月ほど経った日の事だった。


「――これが、マウントコル内にある地下研究施設の構造図だ」

薄暗いブリーフィングルーム。

ホログラムで浮かび上がった立体図を前に、白い猫の男が淡々と説明していた。

男の名はキュイ。

世界政府直属のエージェントで、諜報と情報収集の専門家。鋭い金色の瞳と、控えめな身振り。いつも冷静で、彼が声を荒げるところをシャドウは一度も見たことがない。

「レジーナの残党が、ここに?」

シャドウは腕組みをしながら、正面の大きなディスプレイに映し出された映像を見上げた。

山の内部をくり抜いて建造された巨大な地下研究施設の断面図と、侵入経路。

「残党といっても、たいした勢力ではなさそうだ。レジーナ直下の組織は解体され、組織にいた大部分の人員は既に世界政府の管理下にある」

キュイは指先を滑らせ、ホログラムの一部を拡大した。

「ただ⋯⋯レジーナ本人が言う、解析済みの全ての遺伝子データを破棄したという言葉は信用できない。少なくとも、彼女の直属の部下の何名かは、未だ行方不明だ」

「その部下が遺伝子データを複製して、どこかへ逃亡・潜伏している可能性がある。それがこのマウントコルかもしれないというわけか」

シャドウの発言に、キュイがうなずく。

レジーナはナックルズを攫い、遺伝子データを解析しようとして、ナックルズの生態データを取得し、秘匿していた。

その複製データが、マウントコルの研究施設に隠されているかもしれない。

レジーナは、エキドゥナ族のクローンを生成して、マスターエメラルドをコントロールするエキドゥナ族の能力を、自身の手中に収めようとしていたのだった。

「この情報⋯⋯ソースは?」

「この施設で活動した経験のある者からの垂れ込みだ。信用できるかどうかは微妙だな。この施設の名義はレジーナではなく、全く別の組織のものだが、違法な薬物研究が行われていた痕跡がある。この組織が元々、裏でレジーナとつながっていたのかもしれない」

キュイの耳の先がほんの僅かに揺れた。表情を変えずに軽くキーボードを叩き、データを閉じる。

「だがまぁ、渡せるデータはこれっきりだ。人員を動かすべき条件は満たせていない」

「だが、わざわざそれを僕に共有するという事は⋯⋯」

「レジーナがエキドゥナ族の力を悪用しようとしていた件⋯⋯君が、あれをどれだけ気にかけているかは、俺も理解しているつもりだ。しかし、情報が当たりである保証はない」

「礼を言う、キュイ」

「ただの職業病だ。すぐに向かうのか?」

シャドウは、少し考えこんだ。

(レジーナがナックルズから奪った、ナックルズの遺伝子データ。つまり、これは⋯⋯)

赤いハリモグラに怒られた時の、あの日の言葉を思い出した。

“俺はこの島の守護者だ。島のこと、エメラルドのこと、島やエメラルドを狙う敵のこと。そもそも全部、俺の問題なんだよ!”

(そうだな、ナックルズ。これはきっと、君の問題だ)

シャドウは顔を上げて言った。

「ナックルズを呼ぶ。彼が望むなら、僕とナックルズの二人でマウントコルに潜入する」

キュイは頷き、立ち上がった。

「俺も行く。直接ローカルのデータにアクセスすれば、さらに探れる情報もあるかもしれない」


冷たい山の風が頬を痛めつける。マウントコルの山肌は、全て真っ白な雪に覆われていた。

「うわ、こりゃまた⋯⋯」

深い雪を踏みしめながら、ナックルズが感嘆とも文句ともつかない声を上げた。

「すげぇ雪だな。どこ見ても真っ白で、上も下もわかんなくなりそうだぜ」

「ナックルズ、そっちは崖がある。雪庇を踏むと危険だ、気を付けてくれ」

キョロキョロと周囲を見渡しながら進むナックルズに、キュイが表情を変えずに警告した。

「あ⋯⋯悪い」

シャドウが目の前の雪をかきわけながら、眉をしかめて言った。

「予想以上の積雪だな。進めないわけじゃないが、少々面倒だ」

「よし、どけ、シャドウ。俺が先頭やってやるよ」

ナックルズが強引にシャドウの前に割り込み、両拳でガツガツと雪を掘り進み始めた。

「流石ハリモグラ⋯⋯たいした掘削力だ」

キュイがほれぼれとナックルズの両拳の動きに見入る。

ナックルズはブルドーザーのようにグイグイと雪をかき分けて前進し、雪の中に通り道を作っていく。背後にいたシャドウにバサバサと雪がかかる。

シャドウは何も言わずにかかる雪を払いながら、ナックルズの背中を見守った。

“レジーナが君から吸い上げた、君の遺伝子データが、マウントコルに隠されているかもしれない”

シャドウがエンジェルアイランドでナックルズにそう告げた時、ナックルズの紫の瞳は、燃えるように強い光を秘めて、シャドウを見据えた。

シャドウはその瞳を見て、確信し、マウントコルへの侵入計画をナックルズに説明した。

(聞くまでもない。君はマウントコルへ行く。だったら僕は、君の後ろで、君の騎士をやろう)

三人は、予定よりも早く内部施設へ侵入できる隠し通路の入り口にたどり着いた。キュイが手早く操作パネルにロック解除用の偽装認証データを読み取らせた。

「旧型の虹彩認証システムだ。偽装データを読み取らせるだけで対処できる。⋯⋯ドアが開くぞ」

シャドウとナックルズが同時に身構えた。静かな電子音と共に、機械式のドアが開いた。

シャドウが素早く入り込み、ナックルズが続く。キュイが背後をきにしながら最後に入る。

内部は薄暗く、地面や壁に埋め込まれた赤いライトが不気味に通路を照らし出している。

息の詰まるような温い空気に、外からの冷たい風が流れ込む。

シャドウが身をかがめて通路の先へ進もうとしたその時、三人の後ろで、入り口のドアが電子音を立てて素早く閉まった。

三人の表情に緊張が走る。シャドウが正面を見て構えたまま片手で合図を送ると、キュイが入り口のドアと操作パネルを調べる。

「閉じ込められたようだ。偽装データで侵入した者を誘い込んだ上で排除できるよう、旧システムの内部に新システムを組み込んでいるのかもしれない」

「入れないようにするのではなく、入れた上で閉じ込めるという方法か。つまり、その次に来るのは⋯⋯」

シャドウが通路の奥側に神経を走らせる。

奥側にある曲がり角から、無人機がゾロゾロと静かな機械音を響かせながら進行してきた。

「出やがったな。こいつら、島に襲撃してきやがった無人機とそっくりだ」

「当たりだな。レジーナの残党は、この施設に潜んでいる」

シャドウの背後でナックルズも身構えたが、無人機後から続いてどんどんやってくる無人機の数の多さに、ぎょっとして拳を高めに構え直した。

「な、なんだこいつら、市場の安売りセールの行列みてえにズラズラと⋯⋯」

「この狭い通路でこの数か。遺伝子データの捜索よりも、邪魔者の殲滅が優先事項のようだ」

シャドウは素早く手前に滑走し、先頭の一体を体当たりで吹っ飛ばした。

ナックルズは左右を素早く見渡し、ダストシュートを見つけると、背後で身構えるキュイを抱え上げ、ダストシュートの中に無理やり押し込んだ。

「ナックルズ?!な、何を⋯⋯」

「お前って、戦闘役じゃなくて、諜報役なんだろ。ここはもうぐちゃぐちゃの戦場だ。とっとと脱出して、代わりに応援を呼んできてくれ。できれば、ソニックとかな」

キュイは一瞬考えるようにして目をそらしたが、険しい顔でナックルズに向き直った。

「不完全な情報を渡して、この状況に陥らせた戦犯はこの俺だ」

「難しく考えんなよ。探索なんて、こんなもんだ。それより脱出中に死ぬんじゃねぇぞ。いいか、ソニックを呼べ。暇してるならちょっと手伝えって伝えろ。あとはエージェントの、データ探しに詳しそうなやつとかを頼む」

そういうと、ナックルズは答えを待たず、シャドウに続いて敵の中に突っ込んだ。

「必ず応援を連れて戻ってくる!」

キュイは覚悟を決めた顔で叫び、ダストシュートの扉を閉め、穴の中に滑り落ちていった。


廊下いっぱいに金属の悲鳴が響き合った。無人機の銃撃が、壁を抉り、火花を散らす。

シャドウは閃光のように通路の隙間を駆け回り、無人機を一機、また一機と手刀で薙ぎ切っていく。

ナックルズは手前側で無人機を掴んでは投げ、殴り、叩きつけ、正面から手当たり次第に無人機を破壊した。

その時、耳障りな警告音と共に、分厚い鉄のシャッターが、上から降りてくた。

ナックルズが気付いて駆け出したが、鉄の板が二人を完全に断絶させた。

「ナックルズ!」

シャドウは拳で鉄板を叩く。手応えは重く、びくともしない。

向こう側から、拳で無人機を破壊する音が響いた。

「ナックルズ!今そちら側へ行く!」

シャドウは焦りの混じった声で叫び、周囲に操作パネルがないかを見渡した。

近付こうとする無人機を薙いで破壊しつつ、操作パネルを見つけ、確認するが、セキュリティロックがかかって操作できない。

壁の向こうから、ナックルズの声が響いてきた。

「こっちの曲がり角からも、追加の敵が来やがった!俺は道なりに進んで、奥に潜む敵をやっつける!」

「危険だ、ナックルズ!戻ってきてくれ!僕がすぐに迂回してそっちへ行くから⋯⋯」

シャドウは必死で鉄の扉にすがりつき、扉を何度も強く叩いた。

ナックルズは答えない。

扉の向こう側で響く金属の破壊音が、少しずつ遠くなっていき、すぐに何も聞こえなくなった。

「くそ⋯⋯一人で無茶を⋯⋯僕が前に出過ぎたせいで」

拳を震えさせ、鉄の扉をもう一度強く叩く。

シャドウの背後に無人機が迫る。シャドウは無人機をにらみつけ、憎しみの混じった声で言った。

「⋯⋯邪魔だ。僕は忙しい⋯⋯⋯」

シャドウが素早く攻撃を仕掛ける。

無人機の身体に閃光が走り、一瞬でバラバラになった。

その場にいた無人機を、ひとつ残らずバラバラにすると、シャドウは奥の曲がり角を進み、疾風のように駆け抜けた。

「すぐに合流する。ナックルズを傷つけようとするやつは、残らず僕がバラバラにしてやる」


ナックルズは、前方から来る無人機を力任せに殴り倒しながら、どんどん奥に進んでいった。

「並んで順番に来きやがれ!全員ぶっ壊してやる」

ナックルズの大きな拳が、鋼鉄の顎を粉砕する。飛び散る破片を踏みつけ、次に襲い来る無人機をまた殴る。

通路の先に、細い渡り廊下が見えてきた。

左右は深い吹き抜け。渡り廊下の真下には、ガラスで仕切られた細かい区画がずらりと並んでいる。

「フン、いかにも研究所って感じだな。俺以外の遺伝子データもたくさん抱えてそうだ」

無人機が塊になって、渡り廊下の向こう側から飛び出してくる。ナックルズは中央に飛び込み、真正面からぶつかった。

「おりゃあ!」

手前の無人機が弾け飛ぶ。構わず奥から無人機が押し込んで来て、渡り廊下が大きく軋んだ。

「でっ⋯⋯まじい、こりゃあ⋯⋯」

床が無人機の重みで、一気に崩れ落ちた。足場が消え、体が宙に投げ出される。

ガラスの砕ける音がして、ナックルズは真下の区画の中に落下した。

「ぶっ⋯⋯!」

くぐもるような水音と、冷たい液体の感触。全身が、何かぬるりとしたものに包まれ、ずぶずぶと沈んでいく。

目を開けて、明るい方へ向かって手足をバタつかせると、なんとか身体が上に向かって浮上した。

花の匂いを濃くしたような、甘い匂いが鼻腔を満たす。

「ぶはっ、クソ、なんだよ、このヌルヌルは⋯⋯」

ナックルズは体を起こし、ピンク色のヌルヌルした液体の入った水槽から抜け出した。

ガラス片を払いのけながら、周囲を見渡す。

そこは、渡り廊下から見えた。ガラス張りの狭い区画内の一室だった。

試験管やタンクが並び、壁際のディスプレイには、生体データと思しきグラフや数値が映しっぱなしになっている。床には、割れた水槽から流れ出たピンク色のヌルついた液体が広がっている。

ナックルズの身体は、その液体でベトベトに濡れていた。

「おえぇ⋯⋯きもちわりぃ⋯⋯」

甘ったるい匂いに顔をしかめながら、ナックルズはべとつく毛を手で払い、立ち上がった。

無人機は追ってこない。落下の衝撃で壊れたのかもしれない。ピンクの水槽があった区画から出て、周囲をキョロキョロと見渡した。

「実験室が並んでんのか。俺の遺伝子データ、ここらへんにあるのかもな」

ガラスの向こうで、何かが動くのを見て、ナックルズは隣りの区画をのぞき込んだ。

そこにはたくさんの生き物たちが、壁際に並んだタンクの中に拘束され、生きたまま吊るされていた。

外では見かけない姿の珍しい動物たちばかりだった。遺伝子操作の産物か、あるいはどこかから攫ってきた実験動物か。

一様に怯えたような、諦めたような表情で、大人しく吊るされたままになっている。

「どうした、お前ら。悪いやつらに捕まっちまったのか」

ナックルズは、動物たちに声をかけた。エンジェルアイランドの森でも、ナックルズはよく鳥や小動物に話しかけていていた。

「そんな悲しい顔するんじゃねぇよ。とりあえず自由にしてやるから、元気出せ」

そういって、ナックルズは手前のタンクのガラスを割り、吊るされた動物を拘束している鎖を引きちぎって破壊した。

自由になったその生き物は、一瞬だけナックルズを見つめ、とぼとぼと歩いていって、部屋の隅に座り込んだ。

「歩く元気はあるんだな。そのうち応援が来るから、そこで座って待ってな。⋯⋯次は、こっちもか」

ひとつ、ふたつ。

タンクを割り、鎖を引きちぎり、ナックルズは反対側の部屋をのぞいた。

まだ別のケージがある。そこにも、生き物たちがじっとこちらを見ていた。

「よーし、待ってろよ。今――」

一歩踏み出した瞬間、足がふらりと揺れた。

「⋯⋯あ?」

視界が、ぐにゃりと歪む。床が遠のいたり近づいたりするような奇妙な感覚に陥る。

体の芯が、急に熱を持ち始めた。

「なんだ、これ⋯⋯」

もう一歩踏み出そうとして、膝ががくりと折れた。無理やり歩こうとして、盛大にずっこける。

「いて⋯⋯」

手をついた床が、やけに冷たいのに、体の内側は燃えるように熱い。

熱いのに、どこか寒気もする。喉が渇き、息が浅くなる。

「か⋯⋯身体が⋯⋯」

正体の分からない何かが、体の中で急激に何かを求めているような感覚。

うまく言葉にならない。ただ、落ち着かない。もどかしい。

⋯⋯何かが、欲しい。

「くそ⋯⋯」

ナックルズは、歯を食いしばった。立ち上がれないので、這って進む。

拘束されている生き物は、あとわずか。体を引きずりながら、鎖にしがみつき、噛みついた。

金属の味が口に広がる。歯と顎に力を込めると、鎖が軋んだ。

「んぐ⋯⋯っ!」

一つ、また一つ。歯で鎖を噛みちぎり、動物たちを解放していく。

(やるだけやったら⋯⋯後はきっと、シャドウがどうにかしてくれる)

意識が遠のきそうになるたびに、守護者としての意地だけで、体を前に進めた。


どれくらい経っただろうか。

「――ナックルズ!」

シャドウの声が、上から響いてきて、ナックルズはうっすらと目を開けた。

奥の通路から迂回して回り込んで来たシャドウは、ガラス片と液体でぐちゃぐちゃに汚れた床と、拘束された最後の動物の鎖に噛みついたまま気絶している赤い背中を見つけた。

シャドウがその状況を理解するのに、一秒もかからなかった。

ナックルズに駆け寄り、残りの鎖を手刀で叩き切った。

シャドウがナックルズの名を呼びながら抱き起すと、ナックルズが、息を切らしながら力なく笑った。

「ま、待ってたぜ。動物たちは⋯⋯?」

「全員拘束は解かれて、大人しく隅の方に固まっている。今は君の容態の方が深刻だ」

指先が震えている。体温が異様に高い。シャドウがナックルズの額に手を当てようとしたが、ナックルズが振り払って起き上がった。

「ちょ、ちょっと疲れただけだ。まだ無人機はいるんだろ。とっとと倒して、お、俺のデータを⋯⋯」

「ナックルズ、座れ」

「まだ、俺は⋯⋯」

「座れ」

シャドウが低い声で命じた。

その瞬間、ナックルズの力が抜けたように、床に崩れ落ちた。

シャドウがナックルズを抱き起すのと同時に、通路の先から無人機の群れがやって来た。

シャドウはナックルズを抱き起こし、上を見上げた。

天井の見えない広い空洞を、太いパイプが複雑に走っている。その隙間の奥から、上の層か、あるいは隣りの空間へ逃げられそうだった。

ナックルズを片腕に抱えて飛び、もう片方の腕で天井のパイプをつかみ、よじ登った。

無人機たちが一斉に銃を構える。引き金が引かれる音を聞く前に、シャドウは咄嗟にナックルズの体をに庇うように抱き寄せ、背中を無人機に向けた。

回転の弾みで、足の位置がずれる。

「――っ!」

銃撃を受け、体勢を崩したシャドウは、咄嗟に配管の下に広がる大きな穴の中に飛び込んだ。

激しい銃声と破壊音の響く中、シャドウとナックルズの身体は、地下深く開いた穴の闇へと飲み込まれていった。


落下しながら、シャドウは身体をくるくると回転し、着地の体勢を整えた。

暗闇の中、あちこち配管に身体をぶつけながら、すんでのところでナックルズを庇う。

ようやく勢いを削ぎ、壁を蹴り、暗い穴の底へ足をつけたが、踏ん張りきれず、片足から崩れた。

「く⋯⋯!」

配管にぶつかり、左足を負傷したらしい。崩れた勢いでナックルズが地面に投げ出された。

「あ⋯⋯う⋯⋯⋯」

「ナックルズ⋯⋯!すまない、どこか痛むのか」

穴の底は、金属質な床と壁で囲まれた、配管やコンピューターの狭い隙間にできた空間のようだった。

壁に埋め込まれた機械類のネオンが、不気味な赤い光でうっすらと周囲を照らしている。

ナックルズの身体を抱き起し、薄暗い光に顔を照らしながら、容態を確認する。

荒い息。額には汗。身体全体がぐっしょりと湿り、小刻みに震えている。

気道を確保しようと体勢を変えてナックルズを抱きなおした時、シャドウはどこからか、花のような甘い匂いが漂ってくる事に気付いた。

(この匂い⋯⋯どこかで)

シャドウは思わず息を止めた。

――レジーナの本拠地の要塞都市が、世界政府の占領下に置かれたとき。シャドウも後日、内部施設の調査に参加した。

そこで見つけた、繁殖試験用の部屋に、ガラスのタンクの中で揺れる、ピンク色の粘度の高い液体があった。

動物や試験体のホルモンバランスを狂わせ、繁殖行動を促進するための薬品。特定の種族の雌に対して調整された“媚薬”だった。

(あのときの⋯⋯)

シャドウは、ナックルズの毛並みを撫で、手についた液体の匂いを鼻先で軽く嗅いだ。

甘い匂い。さっきの区画で、ナックルズは、何らかのトラブルが起きたのか、全身が媚薬に浸かってしまったらしい。

「⋯⋯ナックルズ」

「⋯⋯っ、あつ⋯⋯」

熱にうなされ、ナックルズがうめいた。

「か⋯⋯体が⋯⋯あつい⋯⋯⋯」

シャドウは、言葉を失った。

(メス用の繁殖促進薬⋯⋯平たく言えば媚薬。⋯⋯ナックルズは男だ。本来なら想定されていない対象に使われた時、どんな効果が出るのか――)

「命に別状はない⋯⋯はずだ」

シャドウは、かろうじてそれだけを口にした。

「恐らく、実験用の薬が体にかかって、作用しているせいだ。⋯⋯時間が経てば、効き目は薄れる」

「そうか⋯⋯」

ナックルズは、荒い息を必死に押し殺すようにして、身体をよじり、シャドウに背を向けた。

「な⋯⋯なら、問題ねぇや⋯⋯」

そういうと、背中を丸め、地面に突っ伏して、拳を握りこみ、動かなくなった。

シャドウは片膝をついたまま、上を見上げた。

暗い穴の底から見上げた天井は、ぽっかりと黒い口を開けた、化け物の胃の中のようだった。

(無人機が追って来る気配はない。ナックルズが動けるようになるまで、しばらくここに潜伏しているしかないか)

金属に囲まれた穴の底は、冷たく、空気は寒かった。

シャドウはナックルズが寒くないように、身体を近づけようとして、違和感に気付き、身体をこわばらせた。

(僕の身体も⋯⋯熱い⋯⋯)

ハッとして身構え、後ずさる。

──媚薬。

言葉の意味を、文字通り解釈するなら――

それは、薬を浴びた本人だけでなく、その近くにいる者にも影響を与えるのかもしれない。

(馬鹿な⋯⋯⋯⋯)

シャドウは口に手を当て、目をそらして考えた。

(僕は、究極生命体だ。性欲なんて必要としない。そんな不埒で汚らわしい欲望を⋯⋯この僕が抱くはずがない)

だが、ナックルズの荒い呼吸を耳が捉えた瞬間、その理性はあっさりと揺らいだ。

衝動的にシャドウはナックルズを捕まえようとして前のめりにかがみこみ、慌てて壁ににじり寄った。

目を閉じれば、ナックルズの紫の瞳が浮かぶ。

とがった鼻先と、ゆったりと笑う口元まで思い浮かべて、身体が一気に熱を帯び、慌てて目を開いた。

逃れられずに、ナックルズの全身を食い入るように見た。

呼吸に合わせて上下する肩。精悍な筋肉に包まれ、がっしりとした身体つき。しっとりと濡れた赤い毛並み。力なく垂れたギザギザの尻尾。

シャドウは唾を強く飲み込む喉の音を自分の中で聞き、心臓を震え上がらせた。

「シャドウ⋯⋯」

弱々しい声が、耳に刺さる。

「こっちに⋯⋯来てくれ⋯⋯」

「だ⋯⋯⋯駄目だ」

シャドウは喉を焼かれたような枯れた声で、かろうじて叫んだ。

「ナックルズ。僕は今、おかしい。君を傷つけたくない」

壁に背中を押し付け、口元を抑えた。

言いようのない衝動が腹の底から湧き上がってくる。

「僕は今君に近づいたら、何かおかしなことをしてしまう」

心臓の辺りを鷲掴みながら、必死に叫んだ。

「僕は君を守りたいだけだ。自分の欲望のままに君を傷つけるくらいなら――舌を噛み切って死んだほうがマシだ!」

ナックルズの喉が、ひゅう、と音を立てて引きつる。

「⋯⋯体が⋯⋯あついのに⋯⋯寒いんだ」

震える声でナックルズがつぶやいた。

「くるしい⋯⋯⋯⋯ひとりは、いやだ」

その一言が、シャドウの理性を深くえぐった。

ひとりは、いやだ。

それは、かつての自分の叫びでもあった。

宇宙でただ一人、残されたとき。過去と現在のどこにも居場所が見つからなかったとき。

(⋯⋯ナックルズ)

頑固で不器用で、いつもたった一人で古代の島を守っている、孤独な守護者。

それでも、決して弱音を吐かなかった彼が、今、薬のせいとはいえ、“ひとりにしないでくれ”と訴えている。

それを無視できるほど、シャドウは冷酷な性格ではなかった。

「⋯⋯君は、ひとりじゃ、ない⋯⋯⋯」

次の瞬間、壁から身を離し、ほとんど飛び込むようにしてナックルズの元へ駆け寄った。

「ナックルズ!」

赤い体を、背中から抱きしめた。身体が灼けるように熱い。

ナックルズの湿った毛が、腕や身体にべったりと張り付く。

「っ⋯⋯!」

ナックルズの身体の震えが、直接シャドウの体に伝わってくる。心臓の鼓動も、呼吸も、全部。

シャドウは、己の中で何かが崩れていくのを感じながら、必死に最後の一線を守ろうとした。

(これは⋯⋯抱擁だ。それ以上でも、それ以下でもない。僕はただ、彼の震えを止めたいだけだ)

そう言い聞かせなければ、自分の衝動を、存在そのものを信じられなかった。

「⋯⋯く⋯⋯くるしい⋯⋯」

肩で息をしながら、ナックルズがかすれた声を出す。

「すまない」

我に返り、腕の力を緩める。距離を取ろうとして、一歩下がる。

その時、頬を伝う何かに気づいた。

自分の涙だった。

(⋯⋯なんだ、これは)

悲しいからではない。

これはただの“共鳴”だ。

ナックルズの苦しみに、体が勝手に共鳴しているだけ。自分に言い聞かせて、理性を保とうとする。

だが、体の奥から湧き上がる衝動は、それだけでは説明できなかった。

――噛みつきたい。

唐突で、野蛮で、あまりにも原始的な欲求。

肌に残るナックルズの体温を、歯で確かめてしまいたい衝動が、頭の中を駆け巡る。

「シャドウ⋯⋯」

ナックルズが、震える声でシャドウを呼んだ。

「まだ⋯⋯あつい⋯⋯⋯⋯こわい⋯⋯」

その一言で、シャドウの理性は、音を立てて崩れた。

「――大丈夫だ」

何が大丈夫なのか、自分でも分からない。それでも、そう言うしかなかった。

彼を傷つけたくない。けれど、放っておくこともできない。

その矛盾の中で、シャドウが選んだのは――

ナックルズの肩に、歯を立てることだった。

「⋯⋯っ!」

肉を破らない程度に。しかし、しっかりと噛みつく。

鼻にまとわりつく甘い媚薬の匂い。ほんのりまじる、夏草のようなナックルズの匂い。ナックルズの高い体温が、歯と唇を通して伝わる。

「う⋯⋯っ」

ナックルズがうめき、次の瞬間、反射のようにシャドウの肩にも歯が立てられた。

「っ⋯⋯!」

痛みと、熱と、不思議な安堵感。いくつもの感覚が身体の中でごちゃまぜになっていく。

二人は、ぎゅうぎゅうと抱きしめ合いながら、お互いの肩や腕に、ガブガブと、犬同士がじゃれ合うように、夢中で噛みつき合う。

(これは⋯⋯ただの噛みつきだ)

シャドウは衝動と理性に挟まれながら、必死に心の中で言い訳を重ねていた。

(僕たちは、おかしな事なんてしていない。おかしな事をしたくないから、こうして噛みつき合ってるだけだ)

ナックルズのすすり泣く声が耳元で震える。

その合間に、奇妙な声が混じっていると気づいた時――

それが自分の泣き声だと理解するのに、少し時間がかかった。

(別に悲しいわけじゃない。これは、ただの共鳴の涙だ。――どんなに苦しくたって、僕たちは大丈夫だ、っていう証明だ)

どれくらいそうしていたのか。

やがて、ナックルズの噛みつく力が、少しずつ弱まっていった。

荒かった呼吸も、ゆっくりと落ち着いていく。

媚薬の効果が、ようやく薄れてきたようだった。シャドウも、ナックルズを抱きしめる腕の力を緩めた。

互いの肩越しに聞こえる息は、もう先ほどのような切迫したものではなかった。

「⋯⋯はぁ」

二人は、ほとんど同時に大きく息を吐き、そっと体を離した。近い距離のまま、互いを見つめ合う。

薄暗い穴の底。壁に埋め込まれた機械のネオンが、二人の顔を斜めから照らす。

シャドウの肩や腕には、大きめの歯型。ナックルズの首筋や胸元には、小さめの歯型。

どちらも、うっすら腫れ上がっている。涙の跡と汗で、顔はぐちゃぐちゃだった。

しばらく沈黙が続き――先に口元を緩めたのは、ナックルズだった。

「⋯⋯ふへ」

間の抜けたような笑い声。

つられて、シャドウもふっと笑った。

「ふふ⋯⋯」

ふふふ、と二人分の笑いが、静かな穴の中に響く。

「どうやら、効き目は切れたようだな」

シャドウが言う。

「身体は、無事だろうか」

「最高にボロボロだっての」

ナックルズが肩を回しながら答えた。

「でも、平気だ。お前が一緒にいてくれたからな」

その言葉に、シャドウの胸がまた少し熱くなる。しかし、もうさっきのような制御不能の熱ではなかった。

「⋯⋯そうか」

それ以上、言葉は出なかった。

今はただ、“無事で良かった”という事実だけを、互いに噛みしめていた。ナックルズが、壁を見上げて顎をしゃくる。

「登ろうぜ」

シャドウは、左足首に目をやった。痛みはまだある。

だが、ナックルズが完全に正気と体力を取り戻した今、シャドウにとってそれは取るに足らない問題だった。

「無人機がまだ上で警戒していたら、少々面倒だがな」

「そん時はそん時だ。片っ端からブッ潰す」

ナックルズが、胸を張って楽しそうに笑った。


二人がいる穴の壁面は、凹凸に富み、さらに上の方には足場になる配管も多かった。

「俺が先に行って、様子見てくる」

ナックルズは、軽々と壁に飛びついた。

「無茶はしないでくれ」

「無茶はしたって、倒れるつもりはないぜ。待ってろ」

そう言い残して、あっという間に上方へと消えていく。

シャドウは、左足を庇いながら、自分の登れる範囲までゆっくりと身を引き上げた。

少しして――上から、盛大な破壊音が連続して聞こえた。弾けるような金属音と、ナックルズの怒鳴り声。

それから、何かが吹き飛び、壊れる音。

「いいぞー!シャドウ!早く登ってこい!」

ナックルズの朗らかな声が、穴の上から響いた。シャドウは、思わず小さく笑う。途中まで登ったところで、シャドウは素直に声を張り上げた。

「実は片足を負傷しているんだ。これ以上は登れそうにない」

言い終わった時にはもう、ナックルズが側まで降りてきていた。

「ったく、いつの間に怪我なんてしてたんだよ」

文句を言いながら、ひょいとシャドウを肩に担ぎ上げる。

「頼もしいな」

シャドウが苦笑混じりに言うと、ナックルズはフンと鼻を鳴らした。

「ややこしい事さえなければ、シンプルにやるだけだ」

「君の得意分野だな」

「おうよ」

ぐんぐんと壁を登っていく。

穴の縁を越えた先には――ひしゃげた無人機たちの残骸が転がっていた。

その向こうで、複数の足音が響いてきた。

青いハリネズミと、さらにその後ろからは、数人のエージェントがこちらへ走ってくる。

「ナックルズ!シャドウ!」

こちらへ向かって駆けてくるソニックの姿を見て、ナックルズが笑顔で両手を上げた。

「おう、ソニック!ようやく来たか、ちょっと手伝え!」

ソニックは、脇目もふらずナックルズの元へ駆け寄ってきたが、並んで立つ二人の姿を見た瞬間、目を見開き、大口を開けて後ずさった。

「⋯⋯お、お前ら⋯⋯」

薄汚れて湿ったボロボロの毛並み。腫れあがった目元に、赤く充血した目。

そして――身体中のあちこちに刻まれた、無数の歯型。

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

ソニックは、慌てて周囲を見回した。

共に応援として駆け付けたすぐ後ろのエージェントたちに向かって、笑顔でサムズアップを送る。

「よーし、二人とも生存確認!この場は任せた!俺はちょっと、こいつらのメディカルチェックしてくるぜ!」

シャドウとナックルズの腕を掴み、施設の正面出口に向かって駆け出した。

「お、おいソニック――」

「いいから来い!」

音速の名の通りの勢いで、二人を外まで引っ張り出し、施設を出てすぐの場所に建てられた簡易医療テントへ押し込み、スタッフにはウィンクをして、優しく外へと放り出す。

最後に自分も滑り込むように入って、入り口の幕をぴっちりと閉めた。

⋯⋯⋯静寂。

テントの中で、状況がつかめないシャドウとナックルズが、じっとソニックを並んで眺めていた。

ソニックが肩を落として、何かを言いたそうに二人をチラチラと目の端で見やる。

「なんだよソニック。きったねーもんでも見るみてぇな目で、俺たちを見やがって」

ナックルズが眉をひそめる。

「いや、その⋯⋯」

ソニックは口の端を引きつらせながら、二人の体を交互に指差した。

「お前らさぁ⋯⋯それ⋯⋯お互いの、その⋯⋯」

指先が、シャドウの肩の歯型と、ナックルズの腕の歯型を往復する。

「⋯⋯ナニってわけじゃ、ないんだよな?」

微妙に歯切れの悪い言い方。しかし、その意味するところはシャドウには十分すぎるほど伝わった。

「ナニってなんだよ」

ナックルズは気付かず、即座に言い返す。しかしソニックの目線に合わせ、自分の体を見下ろし――

「うっおわああ!?」

裏返った悲鳴を上げた。

シャドウも、自分の肩から腕を見下ろす。無数の歯形に、思わず目を見張った。

(これは⋯⋯)

誰がどう見ても、“お互いに噛みつきあいました”という以外ない痕跡。シャドウの体中から、脂汗が噴き出した。

「ソニック。違う」

上ずった声が出る。

「誤解だ。僕は誓って何もしていない。⋯⋯これは違うんだ。僕はナックルズを助けたくて、ただ――」

“ただ”の先が、出てこない。噛みつき合って、泣いて、抱き合って。

それが“何なのか”と問われたとき、適切なラベルが見つからない。いかがわしい意図はなかった。本当に、それだけは確かだった。

しかし、第三者から見れば――この歯型は、あまりにも説明がつけづらい。

「えっと⋯⋯」

ソニックは、シャドウとナックルズの顔を交互に見た。

シャドウは目を白黒させ、全身から冷や汗を流しながら、必死に言葉を探している。

(⋯⋯シャドウの方は、どうみても“そういう事”だよな)

ソニックは、一瞬だけ目を伏せる。気の毒な気持ちが、胸の奥に浮かんだ。

ナックルズの方はといえば――腕組みをして、ウーンとうなり、考えこんでいる。歯形をつけ合った事自体は、深く気にしていなさそうな顔だった。

ただ「どう説明しようか」を考えているような表情。数秒の沈黙のあと、ナックルズは決意したように顔を上げた。

「疲れて、腹が減ってたんだよ!」

堂々と宣言する。

「なんか文句あるか!」

テントの中に、奇妙な静寂が落ちる。ソニックは口をぽかんと開けたまま、二人をしばらく眺めた。

体中の歯型。泣き腫らした目。それでも、向かい合わせで眺めると、妙に落ち着いている空気。

「うーん⋯⋯」

ソニックは、深くため息をついた。

「とりあえず、理由はまったく分かんないけど――」

両手を軽く上げて、首を傾けた。

「とりあえずは、見た目の通り、“噛みつき合っただけ”ってことでいいや」

「とりあえずってなんだよ!」

ナックルズが抗議する。シャドウは、まだ何か言おうとしている。

だが、ソニックはそれを手で制した。

「シャドウ」

「なんだ」

「気にすんな。お前が、なんか“そういう気持ち”抱えてんのは、まあ⋯⋯薄々分かってたぜ」

シャドウの心臓が飛び上がって、思わず目を見張った。頬が少し熱くなった気がした。必死でソニックの言い分を否定しようとしたが、上手く言葉が出てこず、黙り込むしかなかった。

ソニックの瞳が、真っ直ぐにシャドウを見た。

「でも、今日ここで俺が聞くのは一個だけだ」

ソニックは、わざと軽い口調で続ける。

「ナックルズ、無事か?」

ナックルズは、一瞬だけ目を丸くし、それから鼻を鳴らした。

「最高にボロボロだ。でも、生きてる」

「そっか。じゃあ、それでいいや」

ソニックは、ぐいっと二人の肩を引き寄せた。

「よし。お前らがどんだけ噛みつき合ってようが、無事なら、それでオールオッケー!」

「なんだよそれ」

ナックルズがしかめっ面で突っ込む。シャドウは弱りはてた顔で肩を落とす。明るいソニックの笑い声がテントに響いた。


マウントコルの研究施設は、エージェント達の管理下に置かれ、ナックルズの遺伝子データを始め、違法な研究により生み出されたデータは全て削除され、拘束されていた動物たちもボランティア団体に引き渡され、無事に保護された。

そして、全てが片付いた三日後。

エンジェルアイランドの小屋の中。

シャドウは、椅子に腰かけて自筆の手紙を握りしめ、ブツブツと独り言をつぶやいていた。

“あの時のことは、薬の影響による一時的な錯乱であり――”

(⋯⋯言い訳にしか聞こえない)

シャドウは眉間に皺を寄せ、手紙を握りつぶした。少し考え、テーブルの上に紙とペンを出し、急いで手紙を書きなおした。

“媚薬の影響で衝動を抑えきれず、君に噛みついてしまった”

読み返して、自分で自分が嫌になり、これもまたぐしゃぐしゃに握りつぶしてテーブルの上に放り捨てた。

こんな手紙を読まされて、ナックルズがどう思うかを想像しただけで、頭が痛くなる。

(謝りたい⋯⋯⋯)

しかし、“謝る”という単語を使った瞬間、あの狭い穴の中で噛みつき合っていたすべての時間が、“間違いだった”と断じてしまう気がした。

シャドウはそれも嫌だった。新しい紙を取り出し、書くべき内容を思い浮かべる。

“あれは不可抗力であり――”

“君には何の責任もなく――”

“僕は究極生命体であるにも関わらず理性を失ってしまったが――”

書いても読んでも腹立たしくなるような恥ずかしい駄文しか浮かんでこない。

(⋯⋯いっそ、忘れたふりをする方が良心的なのか?)

そう考えた瞬間、ナックルズの「ひとりは、いやだ」という声が、耳の奥でよみがえる。

(ちがう。ちがうんだ、ナックルズ。君は一人じゃない。少なくとも、僕が⋯⋯⋯)

伝えたい。しかし、何をどう言えばいいのかが分からない。シャドウが諦めずに再びペンを紙に押しつけた時――

小屋の扉が、ノックもなく、軽い音を立てて開いた。

「よぉ、シャドウ」

のんきな声。振り向くより早く、シャドウは反射的に紙を後ろ手に隠した。小屋の入口には、チリドッグを半分かじったままのソニックが立っていた。

「何隠してんだよ。手紙か?ラブレター?」

「違う」

即答してから、そこから先の言葉に詰まり、黙りこくった。ソニックの視線が、机の上の丸められた紙くずと、シャドウの後ろに隠した手を往復した。

シャドウは、先に口を開いたほうが傷が浅いと判断せざるを得なかった。

「この前の、君の言葉だが」

「俺の?」

ソニックが首をかしげる。

“気にすんな。お前が、なんか“そういう気持ち”抱えてんのは、まあ⋯⋯薄々分かってたぜ”

あのときの一言が、心に引っかかったままだった。シャドウは、意を決して言った。

「誤解だ」

「へぇ」

「僕は――“そういう気持ち”なんて持っていない」

ソニックの眉が、わずかに上がる。

「僕は、究極生命体だ。性欲なんて、本来必要としないように作られている」

言葉にしながら、自分でもそれがどれほど苦しい理屈か、分かっていた。

「⋯⋯あの時、僕は確かに、取り乱していた。けれど、あれは薬のせいで理性がかき乱された結果であって――」

ペンを持っていないほうの手が、無意識に握りしめられる。

「そんな身勝手な欲望のために、ナックルズを傷つけるくらいなら、――舌を噛み切って死んだほうがマシだ」

それは、穴の底で自分に言い聞かせていた言葉の繰り返しだった。ソニックは、しばらく黙っていた。

シャドウは、知らず肩に力を込めていた。

だが、ソニックが最初に見せたのは――いつものからかい半分の笑みではなく、どこか柔らかい、困ったような笑顔だった。

「⋯⋯そっか」

ソニックは、チリドッグを持っていないほうの手をひらひらさせる。

「分かった分かった。とりあえず、“そういう気持ちなんて持ってない”ってことにしといてやるよ」

「“とりあえず”とはなんだ」

「そのまんまだよ」

ソニックは、窓の外に視線を向けた。

(ナックルズは、あんな歯型まみれでも、恥ずかしがるどころか堂々としてたのに。必死で言い訳してるの、シャドウだけなんだよな)

そう思ってはいたが――わざわざ口に出して追い込むほど、ソニックも意地悪ではなかった。

シャドウがどれだけナックルズのことを想っているか、あの施設内で倒された無人機の山と、今のシャドウの必死さを見れば、嫌でも分かる。

だからこそ、ソニックは、まずはシャドウの言い分に寄り添うことにした。

「ま、究極生命体がどうとか、俺にはよく分かんねぇけどさ」

ソニックは、ポリポリと頬をかく。

「仮にだぞ?仮に、“究極生命体”ってやつが、性欲持ってたって――」

そこで一拍置き、ちらりとシャドウの顔色をうかがう。

「⋯⋯別に、おかしなことだとは、俺は思わないけどな」

シャドウの喉が、小さく鳴った。

「誰かを好きになったり、そのせいで自分でもわけ分かんないくらい動揺したり、身体中に噛みつきたくなったり」

「最後のは余計だ」

「事実だろ」

ソニックは笑う。

「“身勝手な欲望”って言ったけどさ。誰かを守りたいって気持ちも、その延長みたいなもんだろ?」

ソニックの緑の瞳が、まっすぐにシャドウを射抜く。

「少なくとも俺には、お前がナックルズを傷つけたがってるようには、見えないぜ」

それは、茶化しでも慰めでもなく、ただの本音だった。シャドウは、返す言葉を失う。胸の奥で、何かがきしむように鳴った。

「⋯⋯ま、難しいことは俺には分かんないし」

ソニックは、わざと軽い声に戻す。

「ナックルズに何か言いたいなら、手紙より、ちゃんと自分の口で言えよ」

そう言って、残ったチリドッグを口の中に放り投げるて食べ終えると、くるりと背を向けた。

「チリドッグも食べ終わったし、俺はそろそろ帰る。――ナックルズと喧嘩した時は、また仲良く噛みつき合えよ」

「やめろ、その締め方は」

扉が、軽い音を立てて閉まる。小屋の中に、静けさが戻った。残されたシャドウは、しばらくその場から動けなかった。

手の中の紙が、汗で少し湿っている。

(⋯⋯もう、いい)

シャドウは、持っていた手紙も丸めて、まとめて戸棚の陰へ隠し入れた。

(ゴミは隠して置いて、後で自分で持って帰ろう)

ソニックの言葉が、頭の中で反芻される。

「⋯⋯性欲⋯⋯」

口に出してみると、どうにも居心地が悪い。だが、“欲望”という言葉を、ただ汚いものとして切り捨てるには、あの穴の底での自分の行動は、あまりにも必死すぎた。

(僕が抱いた気持ちは、本当に身勝手なだけの欲望だったのだろうか)

ナックルズを傷つけたくない。彼を守りたい。ひとりにしたくない。

その中に、確かに、自分の欲望もあったのだろう。触れたいと思った衝動も、噛みつきたいと思った衝動も。

しかし、それらすべてをまとめて、ただ“汚れている”と切り捨てるのは――

(⋯⋯彼のことを想う気持ちそのものを、否定することになる)

シャドウは、小さくため息をついた。

「愛と、平穏――か」

ルージュが、コーヒーを差し出しながら言った言葉が、胸の奥で静かに反響する。

“愛というのは、平たく言ってしまえばまぁそうなのかもしれないが。平穏というのはどうだろうな”

あのとき、自分はそう返した。

(ナックルズは、僕の心に“愛”を生み出してくれた)

エキドゥナ族の末裔として、島をひとりで守り続ける男。不器用で、何かあればすぐ怒鳴って、それでも守るべきものにはとことん優しい。

そんな彼を想うことで、自分の中に確かに“何か”が生まれた。

それが友情なのか、ただの親切心なのか、それ以外のもっと深い何かなのか。答えはまだみつからない。しかし――

それを「ない」と言い張ることに、もう意味はないのだろう。

「なら、僕はやっぱり――」

静かに目を閉じる。

(君の心に、“平穏”を返したい)

噛み痕が、互いの体から完全に消えるまでには、もう少し時間がかかる。しかし、この歯型は、シャドウにとって恥ではなかった。

狭い穴の中で、どれだけ不格好でも、お互いがお互いを守ろうとした証だった。そして、あの日を忘れない限り、自分はきっと、また迷うのだろう。

欲望と衝動と、守りたい気持ちの境目で。

シャドウは、小屋の扉を開けて、よく澄んだ島の風を大きく吸い込み、ゆっくりと歩き始めた。

この先どれだけ厄介な戦いが待っていても。どれだけ、自分の感情に振り回されることがあっても。

(ナックルズの平穏だけは、守り抜く)

そう胸の内で誓いながら、シャドウは今日も、赤い守護者のいる祭壇へと向かっていった。