第6話 「ギリアンの夜  上 」

その日も、エンジェルアイランドの空は穏やかだった。

マスターエメラルドの前で、ナックルズはいつも通り警護をしていた。雲を割って吹き上がる風の音を聞きながら空を眺める。

石畳を踏む、規則正しい足音が近づいてきた。ナックルズが声をかけると、シャドウの低い声が返ってきた。

「今日も変わりはないか」

いつも通りの無表情だが、目元はどこか穏やかだった。

「いつも通りだ。風の音が少し騒がしいけどな」

「そうか。⋯⋯差し入れを持ってきた」

うなずきながら、シャドウは小さな紙袋を差し出した。受け取って中をのぞくと、ふんわり甘い匂いがしてくる。

「クッキーか? ⋯⋯お、フルーツ入りだな」

「たまには、島の外の食べ物でもどうかと思ったんだ」

ナックルズは口元に軽く笑みを向けると、小屋に向かって歩き出した。

シャドウは後ろから黙ってついていったが、背後のマスターエメラルドを静かに見上げたあと、ぽつりと言った。

「⋯⋯しばらく、忙しくなるかもしれない」

「ん?」

「何日か、あるいはもう少し長く。ここには来れない日が続くと思う」

ナックルズは振り向き、シャドウを見たが、すぐに正面に向き直って小屋のドアを開けた。

「別に、来れないなら来れないで、無理する必要なんかねぇんだぜ」

「僕は来たいと思ってるんだ。来れない間に、僕がこの島と君の事を忘れてしまったなどと君に思われても困る」

ナックルズは振り向かずに頭を掻きながら、クッキーをテーブルの上に置いていった。

「わかったよ。フルーツジュースを作るから、座って待ってろ」


ナックルズがしぼりたてのフルーツジュースがたっぷり入った二つのカップを小さなテーブルに置くと、甘酸っぱいフルーツの匂いが、狭い小屋の中に広がった。

ナックルズはさっそく差し入れのフルーツクッキーをかじり、頬をほころばせた。それを見て、シャドウの口元もごくわずかに緩む。

クッキーをかじりながら、ナックルズは取りとめもない話を始めた。

最近の島の様子、マスターエメラルドの調子、森に住み着いた変わった羽色の鳥の話。

シャドウはジュースを片手に相槌を打ちながら、その声を静かに聞いていた。

(こじんまりした静かな小屋。窓から漏れる日の光。しぼりたてのフルーツジュース。⋯⋯ナックルズの明るい声。こんなに心地のいい空間が、この世界にあるなんて)

シャドウは目を細めて、ナックルズを見つめ、小屋の匂いを嗅いだ。

フルーツジュースの香りとクッキーの香りにまじって、マウントコルで嗅いだ、夏草のようなナックルズの匂いが隠れている気がして、シャドウはつい自分の鼻をナックルズに向かって突き出した。

ナックルズと目が合い、慌ててシャドウは姿勢をただす。ナックルズがクッキーをかじっているのを見つめなおし、そっとつぶやいた。

「⋯⋯今度の任務は、歯ごたえがありそうだ」

「そうなのか。お前が言うなら、よっぽどなんだな」

シャドウは答えなかった。

エージェントの任務には、守秘義務というものがある。ナックルズに関係のある事件や、協力者として正式に依頼をする時ならともかく、シャドウは今回の任務をナックルズに共有するつもりは一切なかった。

「危険な任務だ。⋯⋯終わったら、またこの島へ、君に会いに来る」

ナックルズはシャドウの目をじっと見た。凛とした赤い瞳は静かな決意に満ちている。

ナックルズは何も言わず、ただ鼻を鳴らして、クッキーの袋を閉じ、カップのジュースを飲み干した。

「帰ってきたら、残りのクッキーを一緒に食べようぜ」

そう言ってナックルズはクッキーの袋を戸棚にしまうと、再びマスターエメラルドの前へ戻っていった。


ナックルズが「反究極生命体」という単語を知ったのは、本当に偶然だった。

近代的な大都市、セントラルシティから西へ。乾いた風が吹きつける荒野を超えた先に、小さな町――ギリアンがある。

「相変わらず、空気が悪ぃな⋯⋯」

鼻をつまみたくなるような匂い。油と酒と、ゴミと、よく分からない何かが混ざった、ねっとりした空気。

ここは、セントラルシティのような綺麗な町に馴染めない流れ者たちが、行き場をなくして溜まり込んでできた場所だった。

狭い路地に、薄汚れた建物が押し合いへし合いで並んでいる。

「ま、道具は安く手に入るしな」

ナックルズは肩を回しながら、迷路のような細い通りを進んだ。

エキドゥナ族の遺物を手入れするための工具や木工用具。その道具を手入れするための薬品類や布類。

(遺跡を綺麗に保つためにも、道具の手入れはきっちりしないとな)

そんなことを考えながら歩いていると、ふと横の路地から声が聞こえた。

「ちょっと、いい加減にしてくれる?」

艶のある女の声。しかし、その響きにはわずかな苛立ちが混じっていた。

ナックルズは何気なく首を傾け、その路地を覗き込んだ。

「へへ、いいじゃねぇか、少しくらい遊んでいこうぜ」

「俺たち暇なんだよ。なぁ?」

数人の男たちが、一人の女の周りを取り囲んでいた。

地味な色の服。ウィッグをかぶり、普段より落ち着いた雰囲気に見せようとしている――それでも、ナックルズにはすぐ分かった。

「⋯⋯ルージュ?!」

口が勝手に動いた。次の瞬間、身体も勝手に動いていた。

スピンアタックで突っ込み、あっという間に男たちを吹っ飛ばした。

壁に叩きつけられた男のうめき声を背中で聞き流しながら、ナックルズはルージュの目の前に着地した。

「よう、ルージュ。何してんだよ、こんなとこで」

にかっと笑って声をかけると、ルージュは一瞬ぽかんと口を開け――すぐに、呆れた顔で目を細めた。

「⋯⋯助けてくれてどうもありがとう。でもね、ナックルズ」

腰に手を当てて、ため息まじりに言う。

「私、今“繊細な任務”の最中だったのよ?」

「繊細?」

「そう。あえて絡まれて、情報を引き出そうとしてたところ」

ナックルズは頭をかいた。

「悪い。久しぶりに顔を見ちまって、つい」

さらっと言われて、ルージュも笑ってしまう。

「まぁ、いいわ。狙えるターゲットはこいつらだけじゃないし」

そう言いながら、ルージュは素早く端末を取り出し、何かを操作し始めた。
連絡の再調整だろう。

ナックルズは特に気にせず、ただぼんやりとその手元を眺めていた。

「⋯⋯⋯?」

視界の端を、文字列がかすめた。

のぞき見防止フィルターで、普通なら読めない角度だった。だが、ナックルズの優れた視力は、フィルターの奥に隠れる小さな文字列を逃さなかった。

「“反究極生命体”⋯⋯?」

無意識に、口に出して読み上げていた。ルージュの指が止まる。

「!」

ルージュはハッとして端末を胸元に引き寄せ、ナックルズを見た。ナックルズの表情が固くなる。

究極生命体とは、シャドウの事。そこに「反」が付く単語。

意味は分からない。だが、ぞわりと背筋を撫でるいやな予感だけは、はっきりあった。

「⋯⋯シャドウと関係があるのか?」

ナックルズはルージュを真っ直ぐ見つめた。

説明を求める目。ただの好奇心ではない。不安と、怒りと、心配が混ざった視線。

ルージュは黙ってその目を受け止め、少し考え込むように視線を落とした。

ややあって、静かに尋ねる。

「シャドウから、何も聞いてないの?」

その一言に、ナックルズの心臓がきゅっと縮んだ。それでも、めげずにナックルズは言い返した。

「最近、シャドウのやつには随分世話になってるんだ。何かやばい事でも起きてんのか?あいつは大丈夫なのか」

ルージュは周囲を一瞥し、小さく息を吐いた。

「⋯⋯ここで話すには、ちょっとね。場所を変えましょ。私の潜伏先が近くにあるわ」

そう言って、ナックルズを手招きする。ナックルズはその後を追って、ギリアンの路地の奥へと消えていった。


ルージュの潜伏先は、古びたアパートの三階だった。

外観は、どこにでもあるボロアパート。階段はきしみ、壁はところどころヒビが入っている。しかし、部屋の中に足を踏み入れた瞬間、ナックルズは空気の違いに気づいた。

簡易の盗聴妨害装置。諜報用の複数の端末。壁のボードに貼られたメモや写真、地図。

雑多でありながら、整然としている。ここが仕事場であることが、一目で分かる。

「そこ、座って」

ルージュはソファを顎で示し、キッチンでポットを手に取った。

しばらくして、ルージュが湯気の立つカップを二つテーブルに置き、自分も向かいの椅子に腰を下ろした。

「で。さっきの話の続きね。シャドウはこの件について、本当に貴方に何も言ってないの?」

「⋯⋯あぁ」

ナックルズは、数日前に会ったシャドウの前のことを話した。

数日前、シャドウがいつも通りエンジェルアイランドにやって来た事。「しばらく忙しくなる」と言っていた事。「今度の任務は少し歯ごたえがある」と言いながら、それ以上は話してくれなかった事。

ルージュは耳の後ろをかき、顔をしかめた。

「⋯⋯貴方はエージェントじゃないけど、世界政府との関係は今のところ良好だし。究極生命体・シャドウの⋯⋯まぁ、“縁者”って建前にすれば、あたしの権限で“最低限の情報”を渡すことはできるわ。でももちろん、シャドウも同じ権限を持ってる」

そう言ってから、軽くため息をついた。

「シャドウは、貴方に今回のことを知られたくなかったって事よね」

ナックルズは眉間にしわを寄せて口を尖らせ、仏頂面になった。

「まぁ⋯⋯俺は、シャドウからすれば、たまに顔を合わせるだけの、無関係の他人だろうだしな」

ルージュが目を丸くしてナックルズを見た。

「他人だなんて、そんな⋯⋯。シャドウがその言葉聞いたら、一体なんて言うかしら」

ルージュが狭い部屋の低い天井を見上げてため息をつく。

少し前に、シャドウのナックルズに対する気持ちを直接聞いてしまっているルージュは、どうにもいたたまれない気持ちになった。

当のナックルズは、特に引きずるでもなく、あっさりと切り替えた顔でルージュを見た。

「それで、“反究極生命体”ってのは、何なんだ」

ルージュはゆっくりと息を吸い込み、吐いた。

「――反究極生命体・ユニ」

静かな声で、その名を告げる。

「それはね、究極生命体シャドウを“内側から破壊する”ために作られた、遺伝子破壊兵器のコードネームよ」

ナックルズの指が、無意識にソファの肘掛けを握りしめた。

「世界政府直属の組織から離反して生まれた反政府組織が、秘密裏に開発してる兵器。もし完成してばら撒かれたら、標的はシャドウだけじゃない。遺伝子構造そのものに干渉するタイプの兵器だから、世界中の生き物にとって脅威になりうる」

「⋯⋯⋯⋯!」

ナックルズは、身体中の血が逆流するかのような感覚に襲われた。

シャドウを壊すための兵器。それが、あらゆる生命体に害をもたらすかもしれない兵器になる。

シャドウが「歯ごたえ」と表現して、詳しく語りたがらなかった理由をなんとなく理解した。

(自分が存在してるせいで、こんな事になっちまったと思ってんじゃねぇのか)

シャドウ一人を狙うために作られたウィルスが、世界ごと危険に晒す。

シャドウは一人で、この件を全て背負いこもうとしているのではないか。

(俺には、エンジェルアイランドの事を一人で背負いこみ過ぎだって、文句言ってたじゃねぇか)

ナックルズはシャドウの事を心配するつもりが、何故か段々腹が立ってきた。

「まだ調査中の段階だし、情報も断片的よ。あたしが今やってるのは、そのユニの開発状況を探るための様々な諜報活動」

ルージュは端末画面を指先で軽く叩いた。

「シャドウは別行動。過去に、ユニの実験に使われたかもしれない施設に潜入して、どこまで進んでるのか、サンプルが残ってるのか⋯⋯それを探ってる」

ナックルズは宙をにらみ、カップのドリンクを一気に飲み干し、ルージュに向かって言った。

「よし。その任務、俺にも手伝わせろ」


「⋯⋯え?」

ルージュは思わず、素の声を出した。

「手伝わせろって⋯⋯あのね、ピザ配達のバイトじゃないのよ。トイレ掃除のバイトでもないし、リンゴを箱に詰めるバイトでもないの。そういう仕事も社会を回すために必要よ。だけど⋯⋯」

「子供扱いするんじゃねぇ。これは普通の仕事じゃない、危険な任務だって事くらい、わかってるよ」

ナックルズはまっすぐルージュを見る。

「世界中を巻き込むやばい兵器で、その中心にシャドウがいるんだろ。あいつの事だ、どうせ自分一人でどうにかしようとか思ってんだろ」

「よくご存じで。言葉には出さないけど、そう思ってるでしょうね」

ルージュは苦笑しながら、カップに口をつけた。

「俺はエージェントじゃねぇ。でも、協力者にはなれるはずだ。今までもそうだっただろ?」

「それはそうだけど⋯⋯」

ルージュは少し困ったように眉を寄せた。

(⋯⋯ナックルズを巻き込むこと自体、シャドウは嫌がるわ)

ルージュは、シャドウがナックルズにこの件を伝えなかった事の意味の重みをわかっているつもりだった。

しかし、目の前の赤い守護者は、既に決意を固めた顔をしている。

「マスターエメラルドは?」

「島を離れるのも、長くて一晩か二晩だろ。その間、ちょっとくらいエメラルドから目を離しても、なんとかなる。何かあっても、それはその時なんとかする」

ナックルズは口角を上げてうなずき、腕を組んだ。ルージュはしばらく沈黙し――やがて、何かを思いついたように顔を上げた。

「ああ、えーと⋯⋯じゃあ、丁度いいわね」

「ん?」

「ちょうど、“ガタイがよくて”“素人っぽい”感じの協力者を、同僚と一緒に探してたところだったのよ」

「お」

ナックルズは身を乗り出す。

「ガタイなら自信あるぞ!素人っぽい、ってのは⋯⋯どういう意味だ?」

「そのままの意味よ」

ルージュは苦笑しながらも、どこか楽しそうだった。

「スパイってバレたら困るから、“スパイっぽくない人”が必要なの。変に洗練されてなくて、素でそこら辺のお兄ちゃんに見えるタイプ」

「それ、褒めてるのか?」

「今回は、最大級の褒め言葉」

そしてルージュは少しだけ躊躇いがちに言葉を選び、様子を伺うようにナックルズを見た。

「⋯⋯そうね。とりあえず、“衣装”を試着してもらいましょ。それで、本当に向いてるかどうか決めるわ」

「衣装?」

ナックルズは首をかしげる。

「諜報活動だからね。変装が必要なのよ」

「なるほどな。なんでもやってやるぜ!」

ルージュは内心小さく舌を出しながら、立ち上がった。

(後で後悔しても知らないわよ)

「じゃあ、こっち」

ナックルズは、よく分からないままルージュの後をついてアパートを出た。


ギリアンの一角にある、窓の少ない簡素な建物。

外から見ればただの事務所だが、そこも諜報役のエージェントの活動拠点のようだった。

中に入ると、そこにいたのは、マウントコルで一緒に潜入活動をした、白猫の男――キュイだった。

「やぁ、ルージュ。予定より早いな⋯⋯」

キュイが顔を上げ、ルージュに続いて入ってきたナックルズを見て、目を丸くする。

「ナックルズ?」

「おう、キュイか」

手を軽く上げて挨拶すると、キュイはほんの少しだけ眉を上げた。

「こんなところで君と会うとは」

そのまま、ナックルズに聞こえない程度の小声で、ルージュに問いかける。

「(ナックルズが来るとは予想外だ。この件、シャドウには?)」

「(シャドウはナックルズを巻き込みたくないみたいよ。でもナックルズの方から“協力したい”って申し出てきたの)」

ルージュが目配せをすると、キュイの耳がぴくりと動いた。キュイは、シャドウがナックルズに強く肩入れしていることを、既になんとなく理解している。

シャドウへの遠慮があるのか、緊張した顔つきでルージュに警告した。

「(シャドウにバレたら、まずい事になるぞ)」

「(ナックルズ本人の意志よ。それに彼、単純そうに見えて、仕事は優秀なの)」

ルージュは動じずにキュイの警告をかわし、ナックルズの方を向いた。

「とにかく、諜報任務だから変装が必要なの。さっそく今夜の潜入で“協力者”をやって欲しい。奥で着替えましょ。サイズはいくつか用意されてあるから」

ナックルズの肩を軽く叩き、廊下の奥へと歩きだした。

危険な任務と聞いてはいたが、ナックルズは緊張で張り詰めていた気持ちが少し和らぐのを感じていた。

ここにはルージュがいる。キュイもいる。

任務は危険でも、共に戦える、頼もしい味方がいる。何も恐れる事などない。何を警戒するでもなく、安心してルージュの後についていった。


奥の部屋は、簡易の試着室になっていた。

衣装棚にはたくさんの衣装がかかり、その横に大きめの姿鏡が一枚立っている。手前の台には化粧道具。棚の上にはたくさんのウィッグ。

ルージュは側においてあった布の束をひらりと手に取り、ナックルズに向き直る。

「じゃ、そこに立ってて。着せてあげる」

「いや、自分で――」

「綺麗に着付けなきゃいけないのよ。はい、腕上げて」

完全にペースを握られ、ナックルズは成す術もなく従うしかなかった。

戦闘のための準備ならば、いざ知らず。変装して諜報というやり方はあまり経験がない。

(まぁ、ルージュがそう言うなら⋯⋯)

そう思っているうちに、ルージュの手は慣れた動きでナックルズの身体に布を通していく。

「サイズぴったりね。よく似合いそうよ」

「ヒラヒラした服着て動くなんて、なんだか落ち着かねぇな」

薄い布に包まれていく感覚に違和感を覚えながらも、ナックルズはおとなしくされるがままでいた。途中で、首に何か冷たいものが巻かれた感触がする。

「ちょっと動かないで。⋯⋯よし。鏡の前、立ってみて」

言われるままに鏡の前へ向かう。

ナックルズは、落ち着いた調子で「どんな感じだ?」と聞こうとして――鏡の中に映った自分を見て、喉から変な声を出した。

「ひょっ!?」

あまりにも素っ頓狂な悲鳴に、ルージュはほんの一瞬、吹き出しそうになる。
しかしプロのエージェントとしての誇りを胸に、なんとか表情筋を制御した。

──鏡の中にいたのは、メイド服を着たナックルズだった。

ただし、それはいわゆる清楚で可愛らしいメイド服とは、似ても似つかない。

胸の布地は大胆に開いており、細い紐と小さな布切れで、ぎりぎり重要な部分を隠しているだけ。背中は大きく開いていて、鍛えられた背筋が露わになっている。

首には黒革の首輪。そこから、細い鎖がだらりと垂れていた。スカートは信じがたいほど短く、少し動けば今にもめくれそうだった。

長く薄いソックスは太ももにぴったり張り付き、筋肉質な脚のラインを強調している。

全体的に白いフリルが散りばめられているものの、どう見ても“清楚なメイド服”ではなく、“趣味の悪いメイド風衣装”だった。

「な、な、な、なんだよこれ!!?」

ナックルズは真っ赤になり、慌てて胸元とスカートを押さえた。

「だ、大丈夫。ちゃんと隠れてるわ」

「隠れてねぇ!!」

大事な部分は隠れている。しかし、心理的には、隠せている気がまったくしなかった。

「お、俺、こんな格好で潜入すんのかよ!?」

「そうよ」

ルージュは平然と答えた。

「安心しなさい。似合ってるから」

「安心できるか!!」

その叫び声は、しっかりと手前の部屋で待機するキュイの方まで届いていた。


「⋯⋯当然、こうなるわけだ」

キュイは奥から聞こえたナックルズの叫び声を耳にしながら、冷静につぶやいた。

眺めていた情報端末から顔を上げた瞬間、扉が開き、ルージュがナックルズを引っ張りながら入ってきた。

「や、やめろ!スカッ、スカートが揺れる!ちょっと、まっ⋯⋯⋯」

「ほらほら、堂々と歩きなさい。どうせ今夜もっと注目浴びるんだから」

そう言いながら、ルージュが引っ張ってきたのは――おかしな露出面積のあるメイド風ナックルズだった。

「⋯⋯⋯⋯」

キュイの金色の瞳が、すっと細くなる。

「でぇぇぇ!キュイ!見るな!!」

ナックルズは、目が合った瞬間、飛び上がって扉の後ろに隠れようとしたが、ルージュに引きずり出され、部屋の中央に背を丸めて立った。

めくれ上がりそうなスカートを左手で必死に押さえ、紐と布でかろうじて覆われた胸元を右手で隠し、真っ赤な顔でおどおどと目線を伏せる。

「な、なんだよこれ⋯⋯なんなんだよ⋯⋯!」

声が上ずり、今にも泣きそうになっている。ルージュとキュイは、同時にナックルズをじっくり眺めまわした。

そして――

「「完璧な素人」」

見事なハモりで評価が下された。

「褒めてねぇだろそれ!」

ナックルズの叫びを、二人は器用にスルーする。キュイは表情を変えずに軽く咳ばらいをし、端末を操作しながら、淡々と説明を始めた。

「潜入先は、倒錯的な嗜好を好む各国のセレブが秘密裏に通う地下クラブだ。表向きは、いわゆる特殊性向向けの娯楽施設。だが裏では、違法取引や情報売買が行われている。世界政府としても、看過できない場所だ」

「今回は、そのクラブにユニ関係者が出入りしているらしくてね」

ルージュが後に続く。

「ターゲットの要人は、“ガタイのいい素人”が好みらしいの。筋肉質で、あまり場慣れしてない感じの男。そして、世界政府の刺客には到底見えない、スパイっぽさゼロの人」

「⋯⋯それで、この格好かよ」

ナックルズは短いスカートに手を当てたまま顔を引きつらせる。キュイは頷いた。

「そうだ。借金の肩に悪徳クラブに売られた哀れな男――といった設定だな。衣装と見た目や仕草のアンバランスさが、実に倒錯的だ」

「だから、褒めてねぇだろそれ!」

ルージュは、ふと悪戯心を抑えきれなくなったのか、ニヤリと笑うと、ナックルズの背後に回り込んだ。

「ちょっと確認」

おもむろに、スカートの後ろをひょいっとたくし上げる。

「わぁぁぁ!? ひゃああああ!!」

ナックルズは悲鳴を上げ、慌てて両手でスカートを押さえ込もうとして――バランスを崩し、その場で尻もちをついた。

弾かれたスカートの中から、これまたルージュが勝手に選んだ、場違いな女性用下着がちらりどころではなく、しっかり見えてしまう。キュイは眉ひとつ動かさず、静かに言った。

「実に倒錯的だ」

「わかんねぇけどその言い回しやめろ!」

半泣きで怒鳴りながら、ナックルズはピチピチの衣装のあちこちを必死に直そうとする。

しかしどこをどう隠しても、根本的な露出度は変わらない。

ルージュは、その様子を見ながら、首の後ろにぞくりと悪趣味な快感が走るのを感じたが――気を取り直し、首を振った。

ナックルズにやる気はある。能力もある。しかし、この任務をやらせるには、ナックルズは無垢過ぎるのかもしれない。

「⋯⋯やっぱり、まずいかしら」

ぽん、と肩を叩く。

「ナックルズ。やっぱり潜入役はやめときましょ。貴方、向いてないわよ。本当に似合ってはいるんだけど」

「似合ってるのかよ!!」

瞬時にツッコミを入れたあと、ナックルズは勢いよく顔を上げた。

「や、やる!俺はやるぞ!」

「え?」

「どうせ誰かがやるんだろ?この危険な潜入役を。だったら、俺がやる。俺なら丸腰で潜入しても、素手で戦えるしな 」

きっぱりと言い切った。キュイはルージュのほうに視線を向ける。

「見た目と戦闘力で言えば、彼は適役だ。懸念点があるとすれば――彼が世にも珍しいエキドゥナ族だと気づく関係者がいた場合、面倒なトラブルに発展する可能性がある事と」

キュイは、一瞬だけ言い淀む。

「もう一つは?」

ルージュが促すと、キュイは肩をすくめた。

「⋯⋯やはりこの事を、シャドウが知った時にどうなるのか、という事だ」

ルージュは、自分の端末に送られてきた資料をざっと流し読みしながら、あっけらかんと言った。

「エキドゥナってバレても、ちょっとナンパされる数が増えるくらいでしょ。今夜一晩くらいなら、誤魔化せるわよ」

「軽いな、おい」

ナックルズは思わず突っ込んだが、その軽さに少し救われる気もした。

「それに、ターゲットが今夜クラブに現れる可能性が高いって情報も既に入ってる。チャンスは逃したくないのよ」

ルージュは、あえてシャドウに関する話には触れなかった。それはそれ、これはこれ。シャドウはシャドウ、ナックルズはナックルズ。

ルージュの感性は冷静で、ある意味とても平等だった。

ナックルズは、スカートを下に引っ張り、太ももを隠しながらも、真っ直ぐキュイの方を向いた。

「作戦詳細を聞かせてくれ」

キュイは小さく頷き、端末に潜入用のデータを映し出し、ナックルズに見せた。

「――まず、君はクラブに“商品”として連れ込まれる。表むきは客寄せ用の新人メイド。裏の目的は、ターゲットの接近を誘い、会話の糸口を掴み、情報を引き出すことだ」

説明が進むにつれ、ナックルズの瞳に宿る光が強くなっていった。最後まで話を聞き終えると、ナックルズは両拳をぶつけて打ち鳴らした 。

「よっしゃ」

気合いの入った声を出した瞬間、スカートがふわりと揺れる。

「わっ」

慌てて腰をかがめ、お尻を両手で押さえ込んだ。ルージュは肩をすくめ、笑いをこらえるように言う。

「OK。⋯⋯リラックスして行きましょう、ナックルズ」

「くそっ、俺はやる⋯⋯やるんだ⋯⋯やってやる!」

独り言で己を奮起させながら、ナックルズは歩き出した。

この衣装がどれだけ恥ずかしかろうと。どれだけ素人丸出しで笑われようと。

――その先に、シャドウを救うかもしれない情報があるのなら。

羞恥心よりも、握りしめる拳よりも強く、胸の奥で燃えているものがあった。