その晩のうちに、作戦は動き出した。
ナックルズは、既に潜入していたサポート役のエージェント――センナと名乗る小柄なシマリスの女性の誘導を受けながら、問題の地下クラブのバックヤードを歩いていた。
胸元スカスカ、丈のあり得ないメイド服。
首には黒革の首輪、その正面には小型カメラ。
後頭部の付け根と、左腕の手袋の内側には、小さな通信機が貼り付けられている。
「⋯⋯任務とはいえ、マジでなんなんだよ、この格好は⋯⋯」
ぼそっと漏らすと、インカム越しに小さな笑い声が返ってきた。
『声は小さめにね、新人メイドさん。地下一階に上がったら、もうここは“舞台の上”だから』
センナの声は、軽いが手際がよく、どこか頼もしい。
『見張りの位置と、監視カメラの死角はさっき全部送ったわ。今は問題なし。⋯⋯息、整えて』
「お、おう」
(ちょっと変な布切れ巻いてるってだけだ。⋯⋯いつも通りだ)
自分に言い聞かせるように深呼吸をして、ナックルズは地下一階へ続く扉をくぐった。
地下一階の広間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
しっとりとした音楽。酒と香水と煙草が混ざった、甘ったるい濃密な匂い。
低く押し殺した笑い声と、ひそひそとした商談の気配。
ナックルズは、他の接待係たちと一緒に列を作り、黒服の案内係に先導されながら広間を横切った。
『左側の柱の陰のスタッフ、あなたを凝視してる。視線を向けず、自然にして。階段は奥の右。待機席から、少しずつ距離詰めて』
センナの指示が耳の奥で響く。
言われた通り、なるべく気負わずに、周囲の物音や空気の流れを読んでいくと――案外すんなり、全体の構造が頭に入ってきた。
(なんだ、意外といけるじゃねぇか)
少しだけ気が楽になったその瞬間。
「君、新人?」
腕を引かれる。黒服の案内係に、ナックルズはふい、と横へ引っ張られていた。
「は?」
「こちらのお客様のお相手を。ほら、ちゃんと笑顔で」
座らされたのは、裕福そうな中年の男の隣だった。男は脂ぎった笑みを浮かべ、ナックルズの肩を撫でる。
「君、可愛いねぇ。筋肉もいい。お小遣い、たくさんあげるよ。うちに来ないか? 一緒に暮らそう」
ぞわっと鳥肌が立った。
(ふざけんな)
喉まで出かかった言葉を、ナックルズは慌てて飲み込み――盛大に咳き込んだ。
「げほっ、ごほっ⋯⋯!」
「おや、大丈夫かい?」
「お、俺、わ、わた⋯⋯ぼ、ぼくは、ここで、しばらく働く、から⋯⋯一緒に住むのは、む、無理、で、す⋯⋯!」
引きつった顔で、ガタガタの敬語になりながら必死に断る。自分でも何を言っているのか分からない。
中年男は、その不器用さを見て、ふっと目尻を下げた。
「はは、慣れてないねぇ。そこがまたいいけど。じゃあ⋯⋯もう少しここでの仕事に慣れたら、また改めてお話ししようか」
ぽん、と軽く肩を叩かれ、ナックルズは解放された。
(た、助かった⋯⋯)
全身から力が抜けそうになりながらも、センナからの指示を思い出して、なるべく目立たないように部屋の奥、待機席へ向かって歩く。
そのとき。
「お、新人じゃん」
背後から声がして――バサッとスカートが乱暴にたくし上げられた。
「ひょわぁぁぁ~~~~っ!!?」
奇妙な悲鳴とともに、ナックルズはすべって尻もちをつく。背後の客たちから笑い声があがった。
「見たか、あの反応」
「新人だよ、いいねぇ」
頬から鼻筋まで真っ赤にしながら、ナックルズはスカートを押さえつつ立ち上がり、ふらふらと逃げるように奥の待機席へ移動した。
『だ、大丈夫⋯⋯?』
センナが心配そうにこちらを見る。ナックルズは、涙目で腕を下げたまま、控えめに親指を立ててみせた。
(シャドウの為だ。このくらい、どうって事ねぇよ⋯⋯!)
重要な情報がありそうな部屋へは、驚くほどスムーズに辿り着けた。地下二階には衣装室もあり、接待係の姿でうろつく分には怪しまれにくいらしい。
『そのフロアは余裕があれば、色々情報を漁って欲しい。鍵はさっき渡したものを使って』
「了解」
ナックルズは、メイド服のフリルを最小限に揺らしながら、素早く情報室へ滑り込む。
人目を気にしつつ、フロア内の部屋を順番に探った。
目にした情報端末に、片っ端から持ち込んだ小型機器を接続して、データを盗み出していった。
(たまにソニックやテイルスにあれこれ手伝わされたり、エージェントに協力したりしてたから、このくらいのコンピューター操作なら俺でもできる)
その時、足音が聞こえてきた。
ナックルズは素早く物置に隠れる。足音が通り過ぎたのを確認して、すぐに廊下に出た。急いで衣装室へ戻る。
(よし。第一の目的は達成だな)
残るは――反究極生命体ユニの開発者と繋がる要人との接触。
潜入前のキュイの説明を思い出す。
“要人の名はハビシュ。たまにこの地下クラブに客として現れるらしい。声、姿、年齢等不明。諜報が集めた例の組織に関連するログデータから総合して、ユニに直結する重要人物であると予想されている”
姿の撮影、声紋、指紋の採取。可能なら、拠点の位置や今後の動向を聞き出すこと。
「⋯⋯正体不明か⋯⋯諜報だし、出会い頭にぶん殴って捕まえるってわけにもいかねぇもんな⋯⋯」
ぶつぶつ小さな声で文句を言いながら、ナックルズは薄暗い階段の踊り場へ出た。
その時、耳の中でセンナの声が流れる。
『ナックルズ。ハビシュが来た。今、地下五階のVIPルームに入ったみたい』
「⋯⋯よし。行くか」
地上一階から地下五階まで――このクラブは、潜れば潜るほど、客の趣向が濃くなるらしい。
『今、地下五階のVIPルームに接客係が十人呼ばれてる。ハビシュの条件は“ガタイがよくて、素人っぽい子”』
センナの説明は簡潔だった。
『こっちで配属を調整しておいた。貴方はその十人のうちの一人として、同行できるはず』
「センナ、助かる」
『OK。私が誘導係になったから、今から合流しましょう」
ナックルズは、センナのいる控室まで戻り、彼女の誘導で他の九人と合流した。ナックルズはセンナに先程盗み取ったデータの入った小型機器を素早く渡した。
センナが軽くウィンクをし、ナックルズは小さくうなずいた。
薄暗い地下の廊下を、ナックルズたちは列になって歩き出す。一番前を、センナが先導する。
(うお⋯⋯⋯)
ちらりと周りを見ると、自分と似たような、いや、同じように変な格好をさせられた男たちが並んでいた。
皆、筋肉質で、しかしどこか怯えたように俯いている。メイクで印象を変えられているが、目元には諦念と不安が混じっていた。
(どういう趣味だよ、ハビシュってやつ⋯⋯)
ナックルズは気分が悪くなってきた。
ハビシュという者がただの変態というだけなら、まだ殴り飛ばして終わりだが、ハビシュは反究極生命体・ユニの情報と繋がっている。
下手に強硬手段に出て、情報を一切引き出せずに逃げられたりすると、シャドウや仲間のエージェントにも迷惑がかかるし、最終的に世界の危機に直結する。
(任務が全部成功して、ターゲットの正体も掴んで、ルージュたちが“もういい”って言ったら――)
ハビシュって野郎の顎の一つくらい、全力でぶん殴っても、きっと誰も文句を言わないだろう。そんなささやかな希望を胸に、ナックルズは歩みを進めた。
やがて、目の前に重厚な扉が現れる。センナが少しだけ振り返り、インカム越しに小さく囁いた。
『素人っぽい子が求められてるから、変に演技しない方がよさそう。感じたままに、とにかく会話を盛り上げるか、仲良くなるところから始めてみて』
「仲良く⋯⋯って言われてもな⋯⋯ま、やってみるぜ」
小さく答えて、ナックルズは肩の力を抜いた。短いスカートがひらりと揺れ、眉をしかめながらお尻を抑えて進む。
センナがノックをして、VIPルームの扉を開いた――その瞬間。
ブシャア、と音を立てて、正面から液状の何かが勢いよく噴射された。
「うおっ!?」
冷たい水か霧か――そう思ったのは一瞬だけだった。
スプレーのような何かで全身にその液体を浴びせられ、ナックルズたちはあっという間に全身を濡らしてしまった。
冷たさよりも先に、鼻を刺す甘い匂いが立ちのぼった。
(⋯⋯この匂い)
瞬間、ナックルズの背筋に冷たいものが走る。
白い雪山、マウントコル。あのとき、わけのわからない甘い香りに包まれ、身体がおかしくなった。
結局、あれがどういう薬だったのかはシャドウからもエージェントの医療班からも聞かずじまいだったが――
今、鼻を満たしている匂いは、あの時身体にかかった薬とよく似ていた。
「な⋯⋯っ?」
前を歩いていたセンナが、短いうめき声を上げ――膝から崩れ落ちる。
他の接客係たちも、まるで糸が切れたように、ぞろぞろと床に倒れ込んだ。
「センナ!」
ナックルズは思わず身構え、前へ出る。
しかし、その身体にもすぐに異変が走った。
息が熱い。鼓動がやけにうるさい。膝に力が入らず、手足が痺れるように重い。
(やべ⋯⋯)
どうにか周囲を見渡したそのとき、奥の暗がりから黒い影が現れた。
黒いローブをまとった人物が、四人。
顔はフードの中に隠れて見えない。
「来たね」
「来た来た」
「来たよ」
「来たぁ~」
似たような、機械で歪められたしわがれた声が、四方向から重なる。変声機かもしれない。声紋採取を潰すための工夫か。
(⋯⋯この四人のうちのどれかが、ハビシュか?)
反射的にそう考えた時には、ナックルズはもう立っているのがやっとの状態だった。
(俺たちの潜入がバレてるのか⋯⋯?)
喉の奥で、嫌な予感が膨らんでいく。
黒いローブの一人が、先頭で倒れていたセンナの腕を乱暴につかんだ。
「やめ⋯⋯っ」
意識より先に身体が飛び出していた。
ナックルズは、ふらつきながらもその腕を掴み、全力で引きはがす。
「「「「あれ」」」」
しわがれた機械の声が、同時に響いた。
「どうしたの」
「なにするの」
「邪魔するの?」
「あ~れ~」
無機質で機械的な声が不気味に流れてくる。ナックルズは、倒れているセンナと九人の接客係全員を、力任せに扉の外へ押し出した。
「ううっ」
「な、なに⋯⋯!」
小さな悲鳴やうめき声と共に、意識朦朧となった男たちが廊下に転がり出る。
(とにかく、こいつらを外へ⋯⋯)
ナックルズは最後にセンナの身体を押し出し、自分も半身で外へ出かけて――ふらりと揺れる身体を、意地でVIPルーム側に引き戻し扉を閉めた。
「⋯⋯はぁ⋯⋯っ、はぁ⋯⋯っ」
中から、両腕で扉を押さえつける。
膝が笑う。視界がにじむ。
(センナは逃がす。接客係も、全員)
声紋。変声機を使っているらしく、今はどうにもならない。
指紋。もはや採る余裕などない。
カメラ。首元の小型カメラは、まだ生きているはずだった。
(誰でもいい。せめて一人でいいから、そのローブ脱いでくれりゃ⋯⋯)
朦朧としながらも、そんな事を考える余裕がまだ少しだけ残っている。
「ねぇ君なにやってるの」
「みんなを守ってるの?」
「おもしろいねぇ」
「じゃ~君と遊ぼ~」
黒ローブの四人が、幽霊のようにゆらゆらと揺れながら近づいてくる。
「⋯⋯っ」
扉を押さえる腕に、力が入らない。身体が自分のものではないみたいだった。
(ちくしょう。任務失敗か⋯⋯)
しかし――少なくとも、センナは逃がした。あの九人も、廊下側に投げ出した。
あとは、そのうちの誰かかが助けを求めに、上の階に逃げてくれればきっとなんとかなる。
(それなら⋯⋯いいか)
朦朧とする意識の中、ずるずると、扉から引きはがされる感覚で目を覚ます。
背中を床に引きずられながら、扉の外で、かすかな声が聞こえた。
――ナックルズ!
(⋯⋯今の、センナか?)
会ったばかりなのに、自分の心配なんかして叫んでくれているのだとしたら。
優しいやつだな、とぼんやり思う。
「⋯⋯さっさと、逃げろ⋯⋯!」
かすれた声を振り絞ってそう叫んだところで、身体から力が抜けた。視界がぐにゃりと歪み、暗闇と光とがぐちゃぐちゃに混ざり合う。
ベッドに投げ込まれた感触で、ナックルズは再び意識を引き戻した。
天蓋付きの大きなベッド。身体が弾んで、深く沈む。
うう、と唸りながら起き上がろうとしたが、その前に四方から重みがのしかかってきた。
腕。足。頭の横。
がっちりと押さえつけられ、身動きが取れなくなる。
「ぐ⋯⋯っ」
黒いローブが四方からかぶさり、フードの奥から覗き込んでくる。
「君かわいいね」
「抵抗してもいいよ」
「多分、もう動けないけどね」
「あ~そ~ぼ~」
しわがれた機械音声が、頭の上からぽたぽたと落ちてくる。寒いのか暑いのかも分からない。身体が震え出す。
汗なのか、さっきの水なのか、べたついた感覚だけがやけに鮮明だった。
(これ⋯⋯この感じは⋯⋯)
マウントコルの記憶が、嫌でも蘇る。
何かが足りなくて、怖くて、ひとりぼっちで。あの時も、どうしようもなく心細かった。
(いやだ)
もう抵抗する力は、ほとんど残っていない。
ナックルズの身体が四方から抑え込まれて、ベッドに深く沈んだ。
「かわいいねぇ⋯⋯噛みついてもいい?」
一人が、そんなことを言った瞬間――ナックルズは目を見開いた。
「怖がらないで。そばにいてあげる」
「大丈夫だよ。優しくしてあげるから」
「ぎゅ~っと抱きしめてあげる」
機械の声は淡々としているのに、言っている内容は、妙に湿っていた。
いやだ。そんなもの、いらない。
噛みつきあうのも。
側にいてもらうのも。
優しくしあうのも。
ぎゅっと抱きしめあうのも。
――相手が、シャドウじゃないといやだ。
ぼろぼろの思考の中で、その言葉だけがくっきりと浮かび上がる。
(⋯⋯あぁ、俺⋯⋯)
ろれつの回らない口で、ナックルズは叫んだ。
「い⋯⋯やだ⋯⋯! 離せ⋯⋯っ!」
首を振る。涙がこぼれる。全身を押さえつけられ、ほとんど動けない。それでも、必死になってもがく。
息が詰まりそうで、声にならない悲鳴が喉に引っかかった。
どうしようもない恐怖と、情けなさと、悔しさと。ごちゃごちゃになった気持ちが、胸の中で爆発して――
「シャドウ⋯⋯っ!!」
とうとう、ナックルズはその名を叫んだ。
黒ローブの四人が、ピタリと動きを止めた。
「シャドウ」
「シャドウ⋯⋯?」
「今、シャドウって言った」
「シャドウのともだち~?」
ローブの下の表情は見えない。しかし、四人の声に、今までになかった色が混じった。
ナックルズを抑え込む腕の力が、いっそう強くなる。
「シャドウの友達なら」
「壊してあげないといけないね」
「嫌なこと、いっぱいしてあげる」
「二度と笑顔になれないよ~」
ぞっとする言葉が、耳元で囁かれる。
バラバラの方向から、手が伸びる。手足を引き、服の生地を乱暴に掴み――布地が裂ける音がした。
「やっ⋯⋯!」
ナックルズは恐怖で、もう一度シャドウの名を叫ぶ。
「シャドウ!!」
その瞬間だった。
黒い閃光が、視界を切り裂いた。
黒ローブの四人が、いっせいに弾かれたように吹き飛ぶ。押さえつけていた重みが消え、ナックルズの身体がふわりと宙に浮いた。
「っ⋯⋯!」
気づいたときには、誰かの腕の中に抱き上げられていた。
見慣れた黒い毛並み。
耳に馴染む、落ち着いた低い声。
「もう大丈夫だ、ナックルズ」
それだけで、張り詰めていたものが一気に崩れた。
(なんで、ここに⋯⋯)
ナックルズはもう声を出すこともできず、かろうじてシャドウの胸元に顔を押しつけた。
シャドウは、片腕でナックルズをしっかり抱きかかえたまま、視線だけで部屋を走査した。
黒いローブの四人は、床を転がったあと、素早く体勢を立て直している。
「シャドウかな」
「シャドウ、シャドウだ」
「本物の究極生命体が来たよ⋯⋯」
「殺してやりたいね~」
機械的な声に、奇妙な感情のにじみが混ざった。
(⋯⋯こいつらの、どれかがハビシュか)
シャドウはナックルズを抱えたまま、四人に向かって殺気を放ち、構えた。
外で待機していたルージュがセンナからの緊急連絡を受けたのは、ほんの数分前だった。彼女の声はかすれていたが、要点ははっきりしていた。
――ターゲットとの接触に成功。
その直後、媚薬と思われる薬品を浴びせられ、全員が倒れた。
ナックルズがとっさに皆を外へ押し出し、自分一人でVIPルームに留まった―
と。
ルージュは、ハビシュ出現の報告をセンナからリアルタイムで受け取り次第、即座にシャドウを地下クラブ付近に呼び出し、待機させていた。
まんいちの際は、突入の必要性を感じていたからだった。
シャドウは、ナックルズが中に潜入中である事と、突入の要請を同時に受け、疾風のような速度でクラブへ突入し、最短で地下五階まで駆け抜けたのだった。
黒ローブたちは、シャドウが追撃に移ろうとした瞬間――音もなく、部屋の奥の扉へと退いた。
動きに無駄がない。敵との接触も逃走も、四人の中では想定内のようだった。
「⋯⋯今は、逃げようか」
「今はね」
「殺すなら今度、ゆっくりとね」
「また遊ぼ~ね~」
薄気味悪い声を残し、四人は闇の奥へと消えた。
後を追える距離だった。ここで一人でも捕らえられれば、ユニに繋がる手掛かりを大きく前進させられるかもしれない。
しかし――腕の中の重みが、シャドウの選択を決定づけた。
ナックルズの呼吸は荒く、全身が汗と水に濡れ、震えている。ところどころ、身体にあざができている。泣き腫らした瞳は閉じているが、眉間には怯えの皺が刻まれていた。
(⋯⋯ここで君を置いて、追えるはずがない)
シャドウはナックルズを抱えたまま、通信に接続した。
「ナックルズを無事に保護。ターゲットは逃亡した。待機班に至急ターゲットの追跡を要請する」
キュイの短い了承の声の後、通信を切る。シャドウは、そっとナックルズをベッドの上に横たえた。
「⋯⋯ナックルズ」
名を呼びかけても、返事はない。意識は完全に飛んでいる。
部屋中に漂う甘い匂いを、シャドウは冷静に分析した。
(マウントコルで使われたものと同系統⋯⋯だが、質が低い)
どの種族にもざっくり効くように調整された、汎用的な媚薬。その分、効果は薄く、残留も少ない。
それでも、ろくでもない薬であることには変わりない。
肩から胸元にかけてまとわりついている、悪趣味な布切れが視界に入った瞬間――シャドウの中で、何かがぷつりと切れた。
(なぜ、こんな格好を)
腕に力がこもり、震える。ナックルズの身体から、ちぎれかけた衣装を無理やりはぎ取った。
「僕は君を巻き込みたくなかった。⋯⋯どうして勝手にこんな場所までやって来て、勝手にこんな任務を請け負うんだ!」
絞り出すような声で吐き捨てた。ナックルズは気を失ったまま、反応しない。
シャドウは震える喉からゆっくりと息を吐き、ナックルズの顔に付いた涙の跡を指で拭った。
VIPルームの扉が開き、ルージュとキュイが入ってきた。
びしょびしょに揺れた床。甘くむせ返る媚薬の残り香。乱れた家具類。びりびりに破かれたナックルズの衣装。
「派手にやってくれたわね。でも、無事で何より」
部屋の惨状と、シャドウの腕の中で眠るナックルズを一瞥して、ルージュがため息をつく。
「ナックルズが盗んだデータを解析中よ。分かったことがいっぱいあるわ。ハビシュと繋がる関係者の名前。拠点の位置情報。この調子なら、ユニの開発ルートもはっきりするかも」
「ターゲットのハビシュは逃亡中だ」
キュイが簡潔に報告する。
「追手は放ったが、今まで捕まらなかった相手だ。今回も、簡単にはいかないだろう」
シャドウは黙ったまま、ルージュを睨んだ。
燃えるような赤い瞳。ルージュは、視線を避けずに受け止める。
「よくも勝手に僕のナックルズを勝手に酷い目にあわせたな、って顔ね。騎士様?」
「⋯⋯⋯」
シャドウがルージュを一層強くにらみつけた。ルージュは肩をすくめる。
「でも、みっつ言わせて。ひとつめ。私は貴方とナックルズ、両方の友人。どっちかの都合だけを一方的に優先させるわけにはいかないの」
キュイが、背後で静かに様子を見守っている。
「ふたつめ。ナックルズは、自分の意志でこの任務に協力したいって、私に言ってきた。私、一度は“向いてないからやめときなさい”って忠告したのよ。それでも、彼は引かなかった」
シャドウの眉間が、わずかに揺れる。
「みっつめ。私は意地悪でナックルズをここに送り込んだわけじゃない。彼ならやってくれるって、期待と尊敬を込めて、好きにやらせたの。結果はどう?」
ルージュはセンナから受け取った小型機器を掲げる。
「重要なデータを盗み出した。ターゲットたちの姿をカメラに抑え、音声も録音した。媚薬を浴びせられても、サポート役のセンナと、関係ない一般人九人を体張って守った。――少なくとも、成果だけ見れば、満点よ」
シャドウは目を閉じて言った。
「ルージュ。君は、ユニに関係する要人・ハビシュ出現の報告で僕を呼びつつ、潜入者がナックルズである事をギリギリまで僕に告げなかった」
「⋯⋯そうね」
ルージュが表情を変えずに答えた。
シャドウが目を開けて、ルージュを静かに見つめ返す。
「そして突入の必要が出た途端、ナックルズの名を出して、僕を奮起させた。迅速に、確実にナックルズを救出するために」
「そうね」
「僕とナックルズを、同時に利用したな」
「成果は出したわ。それが私から貴方たちへの、せめてもの誠意」
重い沈黙がその場に横たわる。
シャドウはナックルズに視線を落とし、前へ出て、そのままルージュの腕にナックルズを預けた。
「私はナックルズの騎士じゃないわよ」
ルージュが眉をひそめる。
「君がナックルズをこの任務に引き入れた。ならば、責任を持って、島まで送り届けろ。介抱も含めて」
「貴方は?」
「ハビシュを追う」
シャドウはルージュに背を向ける。
「ハビシュとその一味は、僕に対して過剰な反応を示した。反究極生命体に関する情報を、やつらが恐らく握っている」
それだけ言って、シャドウは部屋を後にした。
「⋯⋯う⋯⋯」
柔らかいシーツの感触と、鼻をくすぐる消毒液の匂い。ナックルズは、ゆっくりとまぶたを開けた。
「シャドウ⋯⋯!?」
反射的に上半身を起こす。
「おはよう、お姫様」
間の抜けた声が耳に届き、思わず動きが止まった。
ベッドの脇の椅子に腰掛けていたのは、ルージュだった。目の下にうっすらクマを作り、どこか眠そうに笑っている。
ここは、世界政府が所有する地下施設の医療室らしい。天井の照明は白く、窓はない。
「気分はどう? 朝食を食べられるならもって来てあげるけど」
「だ、誰が姫様だ」
心底嫌そうにツッコんでから、ナックルズはハッとした。
「⋯⋯センナ!」
上体を乗り出す。
「あいつ、妙な薬をくらって倒れてた! 無事なのか!?」
「とっくに回復して、次の任務に着任してるわよ」
ルージュは肩をすくめた。
「はやっ⋯⋯!?」
ナックルズは呆れ顔でシーツを握りしめた。
「もっとゆっくり休ませてやれよ。世界政府ってのは、やっぱろくでもねぇ組織だな」
「ええ、よく言われる」
ルージュは苦笑した。
それでも、センナが無事だと知って、ナックルズの顔に安堵が広がる。
「とりあえず、元気そうね。朝食食べたら、準備して。あたしの次の任務、エンジェルアイランドまで貴方を護送することなの」
「いらねぇよ、自分で――」
「やらせなさい」
ルージュはナックルズの額を指で軽く弾いた。
「ちょっとは、あたしの罪悪感を軽くする手伝いをしてちょうだい」
「⋯⋯⋯⋯」
ナックルズは黙り込み、鼻を掻いて視線をそらした。
それから、きょろきょろと周囲を見回す。ルージュは、その視線の意味をすぐに察した。少し迷ったあと、口を開く。
「覚えてる?貴方をハビシュから助け出したのは、シャドウよ」
ナックルズがギクリと肩を揺らした。
「⋯⋯あー、な、なんとなくは。なんであいつ、突然現れたんだ?」
ルージュは目をそらして、少し考えた。
ナックルズの潜入後、ハビシュ出現の報告を受け、シャドウを付近に呼び寄せたのはルージュだった。
しかし、センナからナックルズの決定的危機を知らされるギリギリまで、シャドウを突入させずに待機させていた。
ナックルズが危険を冒してでも、ハビシュからユニに関する有益な情報を聞き出す可能性があったからだった。
ナックルズがルージュを見つめていると、突然ルージュがナックルズを抱きしめた。
「お、おい⋯⋯どうした?!」
「無事でよかったわ⋯⋯本当に」
「なんだってんだよ、唐突に」
「私にだって、恐れている事くらいあるってことよ」
ルージュはそう言うと、ぱっと腕を離し、明るい顔をしていった。
「それじゃ、朝食を用意してあげる。パンとスープか、お腹減ってるならもっと⋯⋯」
「な、なぁ。シャドウは、もう次の任務へ行ったのか?」
ナックルズがそわそわしながら部屋の出口の方を見た。ルージュは途端に気まずい顔をする。
ナックルズは気を取り直して、さっぱりした顔で言った。
「いや⋯⋯いいや。礼を言いたかったんだけどよ。⋯⋯あいつにとっちゃ、俺の事をちょっと手助けするくらい、別に大した事じゃないのかもな」
「違う。ナックルズ、そうじゃないのよ」
ルージュは思わずナックルズの言葉を遮った。
「シャドウはね、多分――照れ臭いのよ」
「⋯⋯うん?」
ナックルズは盛大に首をかしげる。
「貴方に、なんて言ってあげたらいいか分からないから、しばらく貴方の前には現れないかもしれない」
「なんでだよ」
「ナックルズ」
ルージュは、わざとゆっくりと言葉を選んだ。
「貴方が今回の任務に協力したがったのは、それがシャドウの助けになるかもって思ったからでしょ?」
ナックルズは答えずにルージュをじっと見た。
「その結果、貴方は怪我をした。怖い目にもあった。シャドウは、それをちゃんと分かってるの」
ルージュは、片方の足を組み、肩をすくめる。
「“僕のせいで、ごめん”とか、“手伝ってくれてありがとう”とか。そういう類の言葉が、シャドウには一番、言いづらいのよ。孤高の究極生命体だからか、ただのヘタレだからかは知らないけど」
「⋯⋯」
ナックルズは、面食らったような顔で黙り込んだ。
シャドウが照れ臭くて言葉を探している姿など、想像もできない。しばらく考え込んだあと、ナックルズはぽつりと言った。
「⋯⋯ルージュ」
「なに?」
「ありがとな」
「何がよ」
ルージュはわざとそっけなく返す。ナックルズは、声を出さずに笑った。
シャドウが助けに来てくれたことは、うっすらと覚えている。腕の中に抱き上げられた感触も、名前を呼ばれた気配も、夢と現実の境目みたいに残っている。
本当は、もっとちゃんと礼を言いたかった。心配をかけたなら謝りたかった。けれど、ルージュの言葉を聞いて、胸の中の不安がすこしだけ軽くなった。
(待ってりゃいいんだ。あいつはきっとそのうち、島に来る)
「お前ってさ」
ナックルズは、照れ隠しに笑いながら言う。
「雑だけど、シャドウのこと、よく分かってんだな」
「ざ・つ・な・の・は・あ・ん・た・よ!」
ルージュが、力を込めて言い返した。ナックルズは声を立てて笑う。
「⋯⋯よし。朝飯食べようぜ」
「はいはい、わんぱくなお姫様のために、豪華で食べ応えのある朝食をご用意してあげるわ」
「だから誰が姫様だってんだ!」
いつもの調子で軽口を言い合いながらナックルズは朝食を食べ、ルージュに護送され、エンジェルアイランドへと帰還した。