今日も、ナックルズはエンジェルアイランドの祭壇で、マスターエメラルドを見上げていた。
エメラルドの穏やかな光を放つ、神秘の宝石。
その足元で腕を組み、空気の流れと島の揺らぎをじっと感じる、いつも通りの守護者の一日。
祭壇の横手の時空が歪み、黒いハリネズミがふっと現れる。
ナックルズはチラリと見やって、視線を戻した。
「今日も見回りか、ご苦労なこった」
「ユニの一件に関する報告と、念のための安全確認だ。当面は実施させてもらう」
シャドウはいつもの低い声で答え、しかしナックルズから一歩分だけ離れた場所に立った。
以前より、ほんの少しだけ遠い距離。肩がかすりもしない、安全で、礼儀正しい間合い。
簡単な近況報告。世界政府の動き。ユニの解析状況。ナックルズの島の気候と、風向きと、最近増えた鳥の巣の話。
どれも短く、要点だけの会話。気まずい沈黙になるほどではないが、笑い声が自然にこぼれるほどでもない。
「⋯⋯では、今日の報告と確認は以上だ」
シャドウが踵を返し、カオスコントロールで地下施設へ帰っていく。ナックルズは短く返事をして、いつものように見送った。
一人残された祭壇の上で、ナックルズはふっと息を吐いた。
(今までよりずっと、よそよそしいんだよな)
毎日の確認が嫌なわけではなかった。
シャドウはナックルズの体調や精神を確認しているのかもしれないが、ナックルズも、シャドウの様子を見て、危険な任務を一人で背負ってないか、怪我や病気をしていないかどうか、確認しているつもりだった。
(⋯⋯やっぱり、嫌われちまったのかもしれない)
そう思うのは、大抵、シャドウがいなくなってからだった。
その夜、世界政府の地下施設にある一室で、シャドウは椅子に腰かけたまま、額を押さえていた。
「⋯⋯またか」
息を整えようと、深く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。胸の内側で、さっきまで鳴り響いていた悪夢の残響が、まだ消えない。
黒ローブの四人組。地下クラブの暗い部屋と天蓋つきのベッド。甘ったるい媚薬の香り。
押さえつけられた赤い体。泣きながら自分の名を呼ぶ声。
それだけでも、十分すぎる悪夢だった。
だが――シャドウを真に蝕んでいたのは、その後の記憶だった。
タレイア神殿での決戦の直後。
応援のエージェントたちが雪崩れ込むように現場へ到着し、救急車両が横付けされた。
ナックルズは、媚薬を大量に浴びせられた事による高熱でぐったりしていた。意識はあるが、焦点は曖昧で、息は浅く速い。
シャドウは彼を抱きかかえ、そのまま救急車へ乗り込んだ。車内の振動が、揺れる赤い毛並みに伝わる。
シャドウはナックルズの全身を、頭のてっぺんから足先まで、細かく目でなぞった。
あちこちにできた擦り傷。打撲。
そして――左肩の、噛み痕。
「⋯⋯なんだ、その傷は」
無意識に声が低くなる。ナックルズが、ぼんやりとその視線の先に気づき、首を傾けた。
「ああ⋯⋯そこか⋯⋯」
熱に侵され、ろれつが回らない。
「ハビシュと、ユニに噛まれたんだよ⋯⋯あいつら、ハビシュが噛んだ場所に、次々噛みつきやがってさ⋯⋯こいつら、同じ事ばっかやりたがるんだなって、そこで気付いたんだ」
ぼんやりした表情のまま、ナックルズは力なく笑った。
シャドウの中で、何かがぐらりと傾いた。
――よくも。
――よくも、僕のナックルズに、勝手に噛みついたな。
胸の奥で、黒い炎がぼっと燃え上がる。
今すぐ現場に戻り、拘束されたハビシュと動かなくなったユニを、形も残らないくらいに殴りつけたい衝動にかられた。
気づけば、シャドウの手はナックルズの左肩へ伸びていた。
噛み痕の上に、自分の歯形を重ねるように、唇を寄せ――
(⋯⋯何をしている)
指先に力を込め、シャドウは自分の手を引き剥がした。
熱を帯びた肩。浅く上下する胸。 荒い呼吸。
全て、ナックルズ自身のものだ。
(何が、“僕のナックルズ”だ)
心の中で叫び、自分を叱りつけた。
ナックルズは自分の所有物ではない。守りたいと思うのは勝手だ。側にいたいと願うのも勝手だ。
しかし、その体は、心は、全部ナックルズのものだ。
「⋯⋯っ」
それでも、体の奥は、どうしようもない渇きで疼いていた。
ハビシュが許せない。
他の誰かに、ナックルズの体を勝手に味わわれたという事実が、耐えられないほど悔しい。
他の誰かに、ナックルズを取られたくない。
誰かに取られるくらいなら。
(⋯⋯⋯いっそ、この手で、僕のものに⋯⋯⋯⋯)
醜い嫉妬と衝動が、頭の中に浮かび上がるたびに自分自身への嫌悪が増していく。
ナックルズは、揺れる車内で、すぅ、と静かに目を閉じた。
疲れたのか、安心したのか。そのまま、深い眠りに落ちていった。
シャドウは深く息を吐き、頭を抱えた。
(二度と、彼の側を離れない)
今度こそ守る。今度こそ、誰にも触れさせない。
しかし同時に、冷たい理性が耳元で囁く。
――今の僕は、ナックルズに指一本触れるべきじゃない。
心の底で自覚してしまった黒い衝動。みっともない嫉妬と、どうしようもない欲望。
それが、夜ごとシャドウを悪夢の底へ引きずり下ろしていた。
それからの日々、シャドウは徹底的に“観察者”になった。
ナックルズの体調。歩き方。眠れない夜はないか。
悪夢にうなされていないか。
ふいに肩を抱きしめたくなる衝動を、ぎりぎりのところで押し殺しながら、正しい距離だけは守り続けた。
(誰かに壊されるのも嫌だが⋯⋯僕が壊してしまうのは、もっと嫌だ)
そう思うたび、ナックルズの仕草や匂い、表情ひとつひとつが、今まで以上に危険なものに思えてくる。
離れると不安になる。
近づけば近づく程、触れたくなる。
触れればきっと、歯止めが利かなくなる。
(⋯⋯この世の地獄だな)
シャドウは自嘲気味に息を吐いた。
悪夢は容赦なく続いた。
今度の夢の中で、ナックルズを壊しているのはハビシュではない。
自分自身だった。
噛みつき、押さえつけ、泣かせているのは――誰でもない、“究極生命体・シャドウ”。
分厚いガラスの向こうの白い部屋のベッドの上で、ナックルズが泣き叫んでいる。
その身体にまたがり、押さえつけ、噛みつき、凌辱しているのは、正気を失った獣と化した、自分自身の変わり果てた姿だった。
飛び起きるたび、背中は汗で濡れ、心臓は激しく脈打っていた。
眠るのが怖くなり、気づけば睡眠時間はどんどん削られていく。
体力には自信があると自分自身に言い聞かせながら、シャドウは休憩すら最低限に切り詰めた。
数日後。
カオスコントロールのエネルギーが空間を歪める。
エンジェルアイランド上空に姿を現したシャドウは、いつものように祭壇を目指して降下した⋯⋯はずだった。
(――あ)
着地の瞬間、ほんの少しだけ足首がもつれた。極限まで削った休息と睡眠のつけが、ここで顔を出した。
シャドウの身体が滑って傾き、そのまま祭壇の段差から転げ落ちていく。
「おいっ?!」
ナックルズが驚いて飛び上がった。
慌てて駆け寄り、地面に転がったまま動かないシャドウをのぞき込む。
「シャドウ?!だ、大丈夫か!」
シャドウは、起き上がろうとしなかった。別に大して痛くもない。
ただ、極限まで張り詰めていた忍耐力と集中力が、そこでぷつんと切れてしまった。
(⋯⋯眠い)
全身を襲う重たい倦怠感に、遠のく意識。
ナックルズが抱き起こそうとした瞬間、反射的に抵抗しようとして――やめた。
シャドウの頭に押し当てられた、ナックルズの胸元のふかふかの毛並み。
たくましい筋肉。風と土と、夏草のような匂い。ナックルズ特有の、あたたかい体温。
(⋯⋯ああ)
シャドウは目を細め、ぼんやりと空を見上げた。
(今動けないのは、欲望のせいじゃない。ただもう、眠いだけだ)
理性が言い訳を用意する。
少しくらい寄りかかっても問題ない。
ただの休息。ただの、仮眠。
「⋯⋯すまない。眠いんだ」
小さく漏れた本音に、ナックルズは一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。
「そうか。なら、寝てろよ」
そう言って、ナックルズは地面に腰を下ろし、シャドウの頭をそっと膝に乗せた。
驚きと戸惑いを感じながら、シャドウは心地よさに抗えず、まぶたを閉じた。
思いのほか柔らかい膝。視界にばんやりと入る胸元の赤い毛並み。そっと頭を撫でる、守護者の大きくて温かな手。
(⋯⋯⋯まるで、天国だ)
自分でも信じられないほど、あっさりと力が抜けた。
ナックルズが柔らかい声で囁いた。
「起きたら、何か食べたいものあるか?」
低く落ち着いた声が耳の奥をくすぐり、シャドウは夢見心地のまま、口が勝手に動いてしまった。
「⋯⋯きみを、食べたい⋯⋯」
言った瞬間、世界が静止した。
数秒の沈黙。
自分の言葉の意味を理解した途端、シャドウは目を見開いた。
「⋯⋯っ!」
一気に飛び起き、心臓がバクバクとせわしなく胸を叩く。
(何を言っている、僕は)
最低最悪の失言。
今まで積み上げてきた信頼は、今この瞬間、すべて地面に叩きつけられたに違いない。
「い、今のは――」
弁解の言葉を探そうと、口をパクパクさせる。恐る恐るナックルズの方を振り向くと――
「ふーん」
ナックルズは特に驚いた様子もなく、いつもの表情でこちらを見ていた。
「腕でいいか?」
当たり前のような顔で、右腕を差し出してきた。
「⋯⋯⋯⋯え?」
頭の中で、何かが爆発した。
弁解は吹き飛び、なぜか質問が口から出る。
「⋯⋯本当に、いいのか⋯⋯?」
シャドウがかすれた声で問うと、ナックルズは片眉をしかめて言った。
「別にこんなの、初めてじゃないだろ。マウントコルで、お互い噛みつき合ったじゃねぇか」
かつて、マウントコルの穴の中で起きた事。
媚薬の影響でお互いに抱きついて噛みつき合ってしまった、あの出来事。
ナックルズにとっては、“まあそういうこともあったな” くらいの感覚らしい。
シャドウは、おずおずと、まるで特別な果実でも受け取るかのように、その腕を両手で包んだ。
ナックルズの白い大きなグローブを、慎重に外す。
赤い毛並みの、固く鍛えられた掌。その横側に、かぷりと噛みついた。
表面の柔らかさと奥側の筋肉の固さ。噛んだ瞬間、歯に伝わる、ちょうどいい弾力。
鼻から吸い込む匂いは、夏草と果実のまじったような、甘く爽やかなナックルズの匂い。
(⋯⋯美味しい)
脳が、じんわりと痺れるような幸福感で満たされていく。視線は宙にさまよい、頬の筋肉がゆるむ。
(ナックルズの匂い。ナックルズの手。ナックルズの体温⋯⋯⋯)
ずっとこうしていたい。
この腕だけでいい。この瞬間だけでいい。
ふぅ、ふぅ、と鼻息だけを漏らしながら、シャドウは噛みついたまま、しばらく微動だにしなかった。
ナックルズは、時々軽い痛みで眉をひそめつつも、特に振り払おうとはしなかった。
十分かそこらが経って、ようやくシャドウは、名残惜しそうに口を離した。
「⋯⋯⋯⋯」
何とも言えない気恥ずかしさに襲われながら、シャドウは無言でナックルズを見上げる。
「ゆっくりできたか?」
ナックルズは、本当に何でもないことのように聞いてきた。
シャドウは視線を逸らし、短く頷いた。
その夜。
シャドウは、悪夢を見なかった。
代わりに――朝起きた時、自分が枕にしがみつきながら噛みついている事に気付き、ひとりで真っ赤になった。
それからというもの。
シャドウがエンジェルアイランドを訪れた日は、日暮れ前後の、決まった儀式が加わった。
会話は、相変わらず淡々とした近況報告だった。
「研究チームは相変わらず慌ただしい。ユニに関するデータ詳細は、まだ解析中だ」
「そうか⋯⋯こっちは平和だ。昨日カラスとケンカしたくらいだな」
それだけのやりとりなのに、ナックルズはどこか楽しそうで、シャドウはどこか嬉しそうだった。
そして帰り際になると――
「⋯⋯⋯⋯」
シャドウが、ほんの少しだけ落ち着きなくなる。足元で砂を軽くいじったり、風を読むふりをしたり。
視線はあちこちを彷徨いながら、ちらちらとナックルズの右腕を見ている。
ナックルズは何も言わない。ただ、黙って右腕を差し出す。
シャドウは、そっとその腕を両手で受け取り、グローブを外し、ゆっくり噛みつく。
何も言わない。何も聞かない。
ただ、二人とも、その時間を何より大切に過ごしていた。
そんな日々がしばらく続いたある日の事。
青いハリネズミが、ふらふらと島に降り立った。
ナックルズは、いつものようにマスターエメラルドの前で腕を組み、ちらりと来訪者を見る。
ソニック。
しかも、いつになく顔色が悪い。青い体が、青白く見えるほどに。
「ふん」
ナックルズは鼻を鳴らした。この顔で来るときは、大抵ろくでもない理由で落ち込んでいるだけだった。
案の定、ソニックは会うなり、一方的に喋り始めた。
「聞いてくれ、ナックルズ。この世は地獄だ」
「またかよ」
「お気に入りのチリドッグ屋がな、三軒も閉店したんだ!」
ナックルズが目を瞬かせる間もなく、ソニックは指を折りながら続けた。
「一軒目!店主が突然旅に出るって言って閉店!⋯⋯二軒目!子どもが生まれたから子育てに専念するとか言って閉店!⋯⋯三軒目!ラーメンの味に目覚めたとか言って、ラーメン屋になるために閉店!⋯⋯酷いだろ!?旅に出たって子どもが生まれたって、チリドッグは作れるだろ!?別にラーメン屋の看板メニューがチリドッグでもいいだろうが!!」
ナックルズは冷たい声で問う。
「お前の通うチリドッグ屋、全部で何件あんだ?」
「百三件!」
「ならどうでもいいな」
「どうでもよくねぇよ!今の三つは俺の中で五つ星評価の超優良店なんだぞ!」
ソニックにしては珍しく、やけに長い愚痴だった。本気でしょげているらしい。
ナックルズはふと、ソニックの背中を見た。
ハビシュに関する騒動では、散々世話になった。
シャドウと一緒に世界中を駆けずり回って、世界を守り、ナックルズを救出したのは、紛れもなくこの青いハリネズミだった。
(⋯⋯そういや、こいつにもずいぶん世話になってんだよな)
頭のどこかで、自分の腕に噛みついてうっとりする黒いハリネズミの姿がよぎる。
気づけば、口が動いていた。
「⋯⋯口寂しいならよ。お前も、食べるか?」
ナックルズは、ごく自然な動作で自分の腕を差し出した。
ソニックは固まった。
「⋯⋯⋯⋯食べる? お前を?」
差し出された腕と、ナックルズの顔を交互に見つめる。
「いらねぇなら別にいい。辛いときに何が欲しいかなんて、人それぞれだ」
そう言ってナックルズは腕を引き、守護者の顔に戻って、腕を組みなおした。ソニックは数秒ほど固まった後、はっと何かに気づいたように、目を見開く。
(ナックルズの腕を食いたがるやつ⋯⋯⋯シャドウか?)
マウントコルで見た、噛み痕だらけの二人を思い出す。
(究極生命体ってのは、疲れると噛み癖でも出るのかね⋯⋯?)
そこへ、上空に時空の歪みが発生し、シャドウが降りてきた。
「ふん。うるさいのが来ていたか」
シャドウがいつものように言い、ソニックは、
「めんどくさいのが来ちゃったな」
と即座に言い返した。
ソニックは、シャドウのどこかはつらつとした表情と、つやつやの毛並みを眺め回し、大げさにため息をついた。
「⋯⋯まあ、たかが腕をちょっと噛むくらいなら、どうってことないか」
ぽつりと漏らした独り言に、ナックルズがわずかに目を見開く。ソニックは背伸びをすると、ナックルズに背を向けた。
「あーあ、なんか気分がもやもやしちまったな。すっきりしたいからひとっ走りしてくるわ!」
言うが早いか、森の方へ向かって駆け出していった。
ソニックの背中が見えなくなるのを待ちながら、ナックルズはちらりとシャドウを見る。
(⋯⋯たかが腕一本、か)
自分が今、シャドウに与えているもの。それは右腕一本分の噛みつきスペースに過ぎない。
世話になった量で言えば、どう考えても釣り合わない。命を助けられた回数も、守られた回数も、心配させた回数も。
(シャドウは、実は物足りないのかもしれねぇな)
そう思った瞬間、ナックルズの中で、妙な正義感がむくむくと頭をもたげた。
もっと与えるべきだ。自分にできる範囲で、もっと。
シャドウが、少し笑いを含んだ声で言った。
「今日は、騒がしいのがいたせいで、落ち着かないな」
機嫌は悪くなさそうだった。むしろ、どこか楽しそうですらある。
ナックルズは短く息を吸い込んだ。
「今日も腹減ってんのか?」
「⋯⋯“今日も”とはなんだ。僕は究極生命体だ。別に本来は食事を必要としな――」
言いかけたところで、ナックルズが唐突に言った。
「好きな場所、どこでも噛んでいいぞ」
沈黙が落ちた。
シャドウは、一瞬、完全に停止した後――文字通り、飛び上がった。
「なっ⋯⋯!」
目を白黒させ、頬にうっすら赤みが差す。
「ま、真昼間から⋯⋯何を⋯⋯」
「俺の体に噛みつくのに、昼も夜も関係あんのか?」
ナックルズは、本気で不思議そうだった。
そもそも、シャドウが自分の腕にうっとり噛みつく理由を、ナックルズは理解していなかった。
ただナックルズは、シャドウが噛むたびとても嬉しそうな顔をするので、その表情に満足しているだけだった。
「⋯⋯いつも同じとこばっかで、飽きねぇのかなって⋯⋯思ってよ」
頬をかきながら、ナックルズは付け足した。
シャドウの喉が、ごくりと鳴った。
額に汗がにじむ。目の焦点が定まらない。
「⋯⋯本当に⋯⋯どこでも⋯⋯?」
低くかすれた声で確認する。
「おう」
ナックルズはあっさりと頷き、心の中で、ソニックの事を思い出す。
(そういや、あいつ、まだ島の中走り回ってるんだよな。あんまチンタラしてると、見つかって余計なこと言われそうだ)
「一ヵ所だけな」
そう付け加えた。
シャドウは、しばらくの間、全力で迷った。
視線をあちこち泳がせ、唇を噛み、地面を見たり空を見たりナックルズのドレッドロックの毛並みを見たりして――
覚悟を決めたように喉を鳴らし、震える声で言った。
「⋯⋯⋯し⋯⋯⋯しっぽの⋯⋯⋯つけ根」
ナックルズは、くるりと背を向けた。
シャドウの体が、びくんと跳ねる。
「ま、待て、今のは忘れてくれ。やっぱり何も⋯⋯⋯」
シャドウが慌てて撤回しきる前に、ナックルズはその場にしゃがみ込み、尻を高く突き出した。
「ほらよ」
ギザギザの尻尾が、ぴょこぴょこと左右に揺れる。
シャドウは、しばらく固まった。
そして、恐る恐る一歩近づき、そっと両手でナックルズの腰を包みこむ。
(⋯⋯柔らかい⋯⋯)
筋肉質な体つきでありながら、尾の付け根は程よく弾力があり、手のひらに温かさがじんわりとしみこむ。
まるで、長い時間をかけて熟した果実でも扱うように、シャドウは顔を寄せた。
そして――
そうっと、尾の付け根に、歯を立てる。
「⋯⋯⋯⋯っ」
ちょうどいい固さが、歯に当たる。
鼻をかすめるのは、風と森と、甘く香るナックルズの匂い。
シャドウは恍惚とした表情で、ふぅぅ⋯⋯と長く息を吐いた。
(なんて甘美なんだ)
そよぐ草。なびく風。
目の端に映る、マスターエメラルドの緑。目の前いっぱいに広がる、赤い毛並み。
世界のすべてが、柔らかくきらめいて見える。この世に、こんなにも甘く美しい時間があったなんて――
シャドウはぴたりと動きを止め、時が止まったかのように、ただその感覚に浸り続けた。
そこへ、元気な足音が戻ってきた。
「いやぁ、走った走った! ナックルズ、やっぱお前も一緒にマラソンしようぜ⋯⋯」
ソニックは軽口を叩きながら祭壇に近づき、固まった。
視界の中に飛び込んできたのは、四つん這いで尻を高く突き出す守護者と、その尻を両手で大事そうに包み込み、しっぽの付け根に、人生で一番と言っていいほど幸せそうな顔でかぶりついている究極生命体だった。
沈黙。
シャドウが、ゆっくりとソニックの方を向く。目が合った瞬間、シャドウの表情が凍り付いた。
みるみるうちに顔色が変わり、羞恥と焦りと怒りがごちゃ混ぜになったような顔になる。
――なお、しっぽの付け根は噛んだままで。
(こいつ、今必死で言い訳探してる顔だ⋯⋯)
ソニックは本能的に視線をそらした。
ナックルズは、尻を突き出した体勢のまま微動だにせず、ソニックに向かって平然と言い放つ。
「何がマラソンだ。俺は島の警護で忙しいんだよ」
ソニックは堪えきれず叫んだ。
「シャドウに尻噛ませるのが、最近のお前の警護スタイルなのか?!一体どんな効果があるんだよ!!」
その一言で、シャドウの羞恥心は限界点を突破した。
何も言わず、バッと飛び上がり、カオスコントロールで虚空に消えてしまった。
「⋯⋯あ」
ナックルズが両眉を下げて立ち上がる。
「お前が余計なこと言うから、怒ってどっか行っちまっただろ」
「いや、お前らそもそも、どういうつもりで何をやってたんだよ⋯⋯」
「まぁ、明日もまた来るはずだし、別にいい」
ナックルズはあっさり言い切り、マスターエメラルドの正面にまっすぐ立ち直した。
ソニックは、少し前の光景を思い出す。
ベッドで黙って寂しそうに背を向けていたナックルズ。
どうしてやればいいのか分からないと言って、ナックルズに触れることすらできなかったシャドウ。
今、目の前で起きているのは――
ナックルズのお尻にかぶりついてうっとりしているシャドウと、それを「まあそんな事もあるよな」くらいの顔で受け入れているナックルズ。
(お前ら⋯⋯どんだけ極端なんだよ⋯⋯)
肩をがっくり落としながらも、ソニックは少し笑った。
親友でもない。恐らく恋人でもない。呼び名はなんだか分からない。
けれど、きっと明日も、この二人は、二人だけの距離感で島の中を過ごすのだろう。
それなら今は、それでいい。
青いハリネズミは、エンジェルアイランドの風を一度深く吸い込んでから、またどこかへ走り出していった。