第13話「ある幸福、かの幸福」

「ある幸福」

シャドウは満ち足りていた。

仕事は過酷だった。

世界政府のエージェントとして、毎日、朝から世界各地を駆け回る。

危険人物の拘束、敵拠点の制圧、味方部隊の支援、諜報チームの探査、医療班の遺伝子研究への協力。

それでも、心のどこかには、常にかすかな光が灯っていた。

地下施設に戻ったのは夜も更けた頃だった。

シャドウはデスクに腰を下ろし、冷たい蛍光灯の下で報告書を仕上げていく。

キーボードを叩く指は高速で、迷いがない。エンターキーを押し、画面が静かに更新される。時計を見やり、逡巡する。

(⋯⋯今日は、遅くなりすぎたか)

そのまま自室へ戻るはずだった。

しかし、廊下の角を曲がったところで、シャドウは足を止めた。

一拍の沈黙。

そして、両手を構えて、エネルギーを放出し、時空を歪める。カオスコントロール。

向かう先は、いつものあの島。

ナックルズの待つ古代の浮島、エンジェルアイランド。


雲の隙間から吹き上がる風を足元に感じながら、シャドウは島の上空へやって来た。

そっと降り立ち、祭壇へ向かう。

胸が熱を帯びていく。

(⋯⋯起きているだろうか)

やがて視界に、緑に光るマスターエメラルドと、その麓に佇む赤い影が映った。

ドクン、と心臓が跳ねる。何でもないふりで歩み寄り、階段を上る。

こちらに気づいたナックルズが、「おう」と軽く顎を上げた。

「今日は来ないかと思ったぜ」

「⋯⋯起きていたのか」

シャドウは淡々と返した。特に報告することもない。ナックルズも急かさない。

シャドウはナックルズから少し離れた位置に腰を下ろした。

夜風が、二人の間を穏やかに通り抜けていく。静けさが、やわらかな布のように二人を包んだ。

シャドウは横目に赤い毛並みを捉えながら、ふと小さく呟いた。

「⋯⋯いい場所だ」

ナックルズは短く答えた。

「俺もそう思ってる」

それだけで十分だった。言葉よりも、ここに同じように座り続けている事実の方が重たかった。

しばらくして、シャドウはゆっくりと立ち上がる。

「帰るのか」

「ああ」

シャドウは身体についた砂埃を払いながら、ナックルズの右腕へ視線を落とした。

ナックルズは、無言で腕を差し出す。

シャドウはそっと腕を受け取り、片手でグローブを外した。むき出しになった掌の横側へ、静かに歯を当てる。

すぅ⋯⋯と鼻から息を吸い、ゆっくり吐きながら噛み心地を確かめる。

少し角度を変え、また噛む。

今度はほんの少し深く。何度も、何度でも、味わうように。

ナックルズはたまに軽い痛みで眉を寄せることもあったが、声は出さなかった。ただシャドウの仕草を黙って見守り、受け止める。

⋯⋯どれほど時間が経ったのか。

シャドウはようやく口を離し、ふぅ⋯⋯と長い吐息を漏らした。

掌にうっすらついた噛み痕を、指でそっと押しながら眺める。最後にもう一度だけ、やわらかく噛み、腕を返す。

照れ隠しに口元を軽く拭い、シャドウは短く告げた。

「⋯⋯明日も来る」

それだけ言うと、夜空へ吸い込まれるように姿を消した。


地下施設の自室に戻ると、シャドウは一目散にベッドへ潜り込んだ。

枕を抱きしめ、唇を寄せ、かぶりつく。

ナックルズの掌の感触。匂い。温度。噛んだときの甘さ。

全てを思い出しながら枕をふがふがと噛んでいると、急に眠気が押し寄せる。

(⋯⋯明日も忙しい)

けれど、欲しいものは毎日少しずつ、あの島で受け取れる。

胸元がくすぐったくなり、シャドウは身を縮めた。

もう一度枕を抱きしめたまま、まどろみへ沈んでいく。

その顔は、どこか幼く、幸せに満ちていた。



「かの幸福」

満天の夜空の下。

ナックルズは、今夜もマスターエメラルドの前に立っていた。

腕を組み、背すじを伸ばし、空を睨む。

島の鼓動、風の温度、土の匂い。その全てを体の芯で受け止める。

静寂は島を包むように広がり、その中で虫の音が優しく響く。

いつもと同じ、守護者の夜だった。

(もう少しだけ警護したら小屋に戻るか⋯⋯ここで朝まで横になってもいいな)

しばらく考えていると、正面から淡い気配が近づいた。ナックルズは視線を向けると、黒いハリネズミがゆっくりと歩いてきた。

「今日は来ないかと思ったぜ」

軽く声がけすると、シャドウは一拍置いて返してきた。

「⋯⋯起きていたのか」

ナックルズはその顔を見をみて理解した。

(忙しくて遅くなったんだな。来るかどうか迷ってたんだろ)

シャドウは黙ってナックルズから少し離れた場所に腰を下ろした。

その距離が、“異常なし”の合図でもあった。こちらにも報告するほどの変化はない。

ナックルズは視線をそっと上に向け、風を読む。さっきまで冷たかった風が、わずかに柔らかく、温かくなっていた。

虫の音も、どこか穏やかで優しい。

(⋯⋯こいつが来ただけで、島の鼓動が変わるんだよな)

静かで平坦で、自分とエメラルドの気配だけが満ちる島も好きだった。

けれど、シャドウが来た夜の、少し温かさをまとう島も、悪くない。

しばらく目を閉じて島の脈動に耳を澄ませていたときだった。

シャドウが、小さく呟いた。

「⋯⋯いい場所だ」

その一言で、胸の奥がじん、と熱を含む。

自分が守ってきた、一番大事なもの。自分にとっては、世界の中心。

それを、シャドウも「いい」と言ってくれた。ナックルズはその言葉を胸の中で転がしながら、短く答えた。

「⋯⋯俺もそう思ってる」

ただそれだけ。けれど、それだけで十分だった。

しばらくして、シャドウがゆっくりと立ち上がった。

「帰るのか」

「ああ」

その返答の直後。シャドウの視線が、ふいに自分の右腕へ落ちた。

迷うような、期待するような、遠慮するような──頼りない目線。

(いつものやつだな)

差し出すべきものはわかっている。ナックルズは、黙って右腕をシャドウへ差し出した。

途端に、シャドウの表情がぱっと明るくなる。

宝物でも扱うように右腕を受け取り、丁寧にグローブを外し、掌の横にそっと噛みつく。

ふぅ、ふぅ、と鼻から細い息を漏らしながら、角度を変え、深さを変え、何度も噛む。

目は合わない。言葉もない。ただ夢中で、ナックルズの右腕だけを味わっている。

(いて⋯⋯)

たまに痛みで顔をしかめるが、声は出さない。そして、嫌ではなかった。

シャドウが最近、毎日のように自分の腕に噛みつく理由。

ナックルズは、答えにたどり着きつつあった。

(俺にはマスターエメラルドがある。この島がある)

(じゃあ⋯⋯こいつには、何があるんだろう)

シャドウは何かを欲しがっている。

欲しがっていて、それが満たされなくて──自分を頼りに、この島へやって来る。

そして、右腕に噛みついて、満ち足りた顔で帰っていく。

翌日また来て、そわそわしながら、期待に満ちた目で右腕を見つめる。

差し出せば、ありがたそうに受け取って、幸せそうに噛む。

(わかるぜ、シャドウ)

ナックルズはただ静かにシャドウをみつめ続けた。

(何かが欲しいんだよな。何かが足りなくて、欲しくて⋯⋯でも、わからねぇんだ)

ナックルズも、シャドウの気持ちを正しく表現するための言葉はわからない。

でも、気持ちは重なっている。同じ方を向くことができる。

(俺は、持ってる。だから──もし渡せるもんがあるなら、いくらでもやるよ)

しばらくして、シャドウはようやく噛みついた口を離し、腕を返してきた。照れ臭さを隠すように口元をぬぐい、視線を泳がせる。

ナックルズは何も言わなかった。シャドウは小さく息を吐き、

「⋯⋯明日も来る」

とだけ告げ、夜空へ消えた。

シャドウが消えた空の彼方を、ナックルズはしばらく静かに眺めていた。

その胸に残るのは、ほんの小さな熱。島の夜風とは違う、人の気配のぬくもり。

(⋯⋯シャドウ)

──明日も来いよ。

俺はここにいる。

俺は動かない。ただ待つ。

⋯⋯この島と共に。