シャドウは今日も世界政府のエージェントとして、休む間もなく働いていた。
世界のどこかで事件が起きれば駆けつけ、諜報チームの探査を手伝い、医療班の遺伝子解析に協力し、危険人物の確保へ走り回る。
しかし、どんなに多忙な一日であっても、夜になれば、ナックルズに会える。
その確信だけが、彼をまっすぐ立たせていた。
祭壇の前での、控えめな会話。時々のからかい合い。島の風を受け、星を眺め──最後にナックルズの腕を噛み、匂いを吸う。
それだけで、また明日も戦える。
その日も、シャドウは地下施設の通路でルージュと合流し、資料を抱えてブリーフィングルームへ向かった。
扉を開く。照明の白い光と、忙しげな声が漏れ出す。二人は奥のテーブルへ歩き、向かい合って腰を下ろした。
今回の任務は、違法薬物ルートに関する極秘情報の交換。
気を引き締めねばならない任務だった。
シャドウは壁を背に座り、覇気の宿る目でルージュの方へ向き――
ルージュの肩の先、後方のテーブルで動く影を見た瞬間、息を呑んだ。
ナックルズと、キュイ。
二人が、隣り合って座り、ひとつの端末に顔を寄せ合って話していた。
キュイが何かを囁き、ナックルズが笑う。ナックルズが身を乗り出し、キュイの手元を覗き込む。
──いくらなんでも、距離が近すぎる。
シャドウの全身が固まった。顔が引きつり、拳が震える。胃の奥がきゅっと縮む。
ルージュはシャドウの奇妙な顔を見て眉をひそめ、彼の視線を追った。
そして、背後に座っている二人を見て、小さく息を呑んだ。
二人は、やけに親しげだった。しかも、何か内緒話めいた雰囲気すらある。
ルージュがシャドウに視線を戻すと――シャドウの目は血走り、噛み殺すような怒りに拳が震えていた。
ルージュは固唾を飲んで状況を見守った。
ナックルズが興奮した顔で端末をさらに覗き込み、笑顔でキュイの腕を掴んだ。
その瞬間。
「ああああ⋯⋯」
シャドウの口から、情けなく歪んだ声が漏れた。
ルージュが「見てられない」と言いたげに肩をすくめる。キュイとナックルズは気付かない。
そして次の瞬間。
ナックルズが、真剣な顔で考え込み──
右腕を、キュイへ向けて差し出した。
シャドウの身体に、見えない雷が落ちた。
一拍置いて、シャドウは椅子を跳ね上げ、部屋を裂くように飛び出した。
黒い残像がナックルズの前に立つ。
ナックルズの右腕をつかみ、シャドウが叫んだ。
「君の腕に噛みついていいのは世界でただ一人、僕だけだ!!」
部屋中が凍りついた。
ナックルズはぽかんと口を開けたまま固まる。
キュイは完全に動きを止めた。ルージュは、驚かずに目を細めた。
周囲のエージェントたちが、椅子から身を乗り出して見ている。
シャドウははぁはぁと肩で息をしながらナックルズをにらみつけ、ようやく自分の状況を理解した。
顔がみるみる赤くなり、そして青ざめた。
ナックルズが口を開きかけた瞬間、シャドウは風のような速度で部屋から逃げ出した。
ナックルズは混乱しながら扉の方を見た。
「⋯⋯なんなんだよ、あいつ⋯⋯」
キュイはもう平静に戻り、
「シャドウが来ていたのか、気づかなかった」
と淡々と述べた。
ルージュは、部屋中の視線をまとめるようにひとつ咳払いし、仕事に戻るようにと軽く手をあげて合図をした。
そしてナックルズたちのテーブルに向かう。
「ナックルズ。あなたの腕がどうかしたの?」
ルージュが聞くと、ナックルズは平然とした顔で言った。
「ハビシュの一件での聴取の後に、最近南で見つかった遺跡の情報を交換してたんだ。久しぶりに探検でもと思ってよ。キュイには世話になってるし⋯⋯もし喜ぶなら、と思って。俺の腕でも食うか?って言っただけだ」
キュイは腕を食うという言葉の意味がつかめず、静かにナックルズを見つめ、
説明を求めるようにルージュへ視線を送った。
キュイは、それをエキドゥナ族の文化特有の比喩表現か何かだと思ったようだった。
ルージュは察した表情でナックルズに言う。
「線引きって、大事よ。本当に大事なものは、誰にでも簡単に渡しちゃいけない。自分を大事にしてくれる人のためにも、ね」
ナックルズはしばらく言葉の意味を考え、
「ああ⋯⋯」
と呟いた。
それから、キュイの端末を借りて、シャドウへメッセージを送った。
シャドウは地下施設を飛び出し、港の防波堤で膝を抱えていた。
胸が痛くて、胃が痛くて、恥ずかしくて死にたくなるほどだった。
(⋯⋯この世でもっとも、みっともない行動をしてしまった)
嫉妬して、独占欲で爆発して、怒鳴り散らして、恥に耐えられず逃げ出す。
(⋯⋯嫌われた)
その時、端末が震えた。
♪世界でたったひとつ、大事なもの⋯⋯♪
ナックルズからの着信が鳴る。メッセージはただ一行。
“どこにいる?話がある”
会いたくない。顔を見られたくない。逃げ出したい。
しかし──
(⋯⋯ナックルズなら、絶対に逃げない)
エンジェルアイランドで、いつもマスターエメラルドの前に立ち続けてきた守護者。
いつもシャドウを島で待ち、真正面から迎え入れてくれるナックルズ。
(そんな彼から、僕だけが逃げるなんて)
シャドウは、震える指で現在地を送信した。
シャドウの待つ防波堤に、ゆっくりと足音が近づく。
「⋯⋯⋯⋯」
ナックルズがシャドウの隣に座った。なんのためらいもなく、すぐ隣りに。
海の匂い。波の音。沈む夕陽。
シャドウは背を向けたまま、絞るように呟いた。
「⋯⋯怒鳴ってすまない。君が誰に何をしようが、君の自由だ。さっきのことは忘れてくれ」
ナックルズは海を見ながら静かに答えた。
「⋯⋯俺には、エンジェルアイランドがある。だから、どんなことにも耐えられる。俺は動かない。⋯⋯だから、この右腕は⋯⋯」
ナックルズは、シャドウの方をまっすぐ見た。
「お前以外には噛みつかせない。⋯⋯それでいいか?」
息が止まった。
シャドウは目をそらし、かすれる声で返した。
「⋯⋯⋯ああ」
ナックルズはほんの少しだけ口元を緩ませて立ち上がる。
「戻ろうぜ」
シャドウも立ち上がろうとして、胸の奥の渇きが、勝手に言葉を作った。
「⋯⋯少しだけ」
ナックルズは振り向き、シャドウの視線を見た。
右腕へ向けられた、子どものような、いつもの目。
「⋯⋯少しだけな」
ナックルズは、右の指を一本差し出した。
シャドウはほっと表情を緩め、その指に、かぷりと噛みついた。
夕日が海に沈む。波が金色に揺れる。
夕暮れの防波堤で、ナックルズは穏やかな目で空を見上げながら思った。
(⋯⋯今日も、いい夜になりそうだな)
横ではシャドウが、うっとりとした表情で指に噛みついていた。